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第三章・13話

 椿が妊娠した。  だけど、それは想像妊娠だった。  このフレーズはペアになって、テニスサークルの中を飛び交った。  心優しい者は、大変だったね、といたわり、やんちゃな者は、何やってンだよ、と笑った。  そして、稀一の耳にも入った。 「想像妊娠……!」  失敗した、と思った。  思ってすぐに、部室の蒼生を見た。 「やだなぁ。あんまり言わないでよ」  笑いながら、自分をネタに友人たちと話す蒼生の姿がそこにはあった。  途端に稀一は、蒼生が惜しくなった。  正直、名誉な話題じゃない。  だのに、笑って受け流す蒼生の強さを改めて感じたのだ。    可愛いだけの男じゃない。  稀一は、初めて蒼生とテニスで対戦した時のことを思い出していた。  どんな球でも、必死で追いかけてゆく負けん気。  そんな彼特有の強さを、思い出していた。 「蒼生、ちょっといい?」 「何ですか、若宮さん」  稀一は、唇を噛んだ。  先だって、自分から別れを切り出したのだ。  蒼生の中では、俺はもう終わった男。 『稀一さん』ではなく『若宮さん』なのだ。  気を取り直して、稀一は蒼生をディナーに誘った。 「妊娠でなくってよかったな。お祝いしてあげたいんだ」 「ありがとうございます。喜んで」  蒼生は、心の中で泣きそうだった。  普通、逆でしょ!?  赤ちゃんできたら、喜ぶものでしょう!?  しかし、今夜が勝負どころだ。  何食わぬ顔をして、蒼生は晩まで過ごした。

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