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フジに呼ばれた?

〝予に恨みなし〟  暗夜に仄白く浮かんでいただろう優美な姿が消え去ったあと、空気の微かな振動に乗って甘く雅やかな声音がやんわりと、忠告するかのように天下人の寝所に漂い流される。その声音に向けて天下人が居住いを正し、頭を下げたのが、暗闇の中、声だけを聞かされるアスカにも気付けていた。 〝兄上様〟  その暗夜が変異した男との最初にして最後の密会となるのは、天下人にもわかっていたようだ。改まった口調の呼び掛けに少しの迷いもなかった。男にまつわり付いていた幼い頃の明るさを見せつつ、壮年期らしい重みのある声音で穏やかに、それでいて天下を制した武将としての豪胆さで続けて行く。 〝今生にて賜りましたご恩、死しても忘れは致しませぬ〟  今生と言葉にされたせいか、アスカはそこにフジの前世を思ってしまった。それが間違いだった。十人並みの小憎らしい容姿を思ったが為に、フジに呼ばれたような気分で今のこの時に意識を戻す羽目になる。

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