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第7話

竣平の父、泰孝(やすたか)が、いつものように神保(じんぼ)医院の診察室にいると、受付をしている女性職員が顔を覗かせて尋ねた。 「先生、今いらした患者さん、保険証も、あとお金の持ち合わせも無いそうで……でもどうしてもこちらで診て欲しいっておっしゃってるんですが……どうしましょう……」 「え?そう……とりあえず診るよ。なんか事情があんじゃない?追い返すのも気の毒だ」 「はい……」 彼女はまだ不安そうな顔をしている。 「どうしたの?」 「いえその……他所から来た方のようで……ホントにいいですか?」 「うん?いいけど?」 泰孝が以前勤めていた大学病院は大きな都市にあったから、患者に他所者もなにも無かったのだが、ここを訪れる患者は町の人間ばかりだ。そのためか見知らぬ人間には過剰に警戒するようだ――たとえ保険証があっても同じように用心されるのだろう……昔と今ではかなり変わったとはいえ、まだ排他的な体質も残ってるのだな、と泰孝は、父がここに開業したばかりのころ、地元の人々の信頼を得るまではなかなかに苦労していたことを思い出して苦笑した。が、診察室に入ってきた人物を見て――泰孝自身も職員の懸念に思わず納得してしまった。 ――それは二十代の後半くらいに見える若い男と、息子の竣平と同じ年頃らしい少年の二人連れだったのだが、若い男はなんというかカタギには見えず……不穏な雰囲気を漂わせている。診察室の中だというのにサングラスを外さずにいて、真っ白なスーツ姿、肩まで伸びた黒髪は乱れなく整えられていた。少年の方は整って綺麗な顔立ちをしているが、かなりやつれた様子で足元がふらついている。着ているのは制服のような簡素な白いシャツに黒のパンツだったが、新品に見える男のスーツとは違い、大分古びて生地がほころびている。 一体どういう関係なんだろう?兄が付き添ってきたにしては雰囲気が違いすぎるが……などと不審に思いながら泰孝は尋ねた。 「その椅子にどうぞ……どうしたのかな?」 「怪我をしてからずっと具合が悪くて。体力が回復しないんです」 少年がおぼつかない足取りで椅子に近付き腰掛けるのを支えて助けながら、男が答えた。 促してシャツを脱がせ、薄い胸に聴診器を当ててから後ろを向かせると、背中にふさがったばかりのような大きな傷跡がある。それを見た泰孝はつい声を上げた。 「怪我ってこれか。大分酷かったようだね。可哀想に……」 傷跡は少年の、青白い滑らかな肌の右肩から左腰にかけて肉を大きくえぐられでもしたような形で残っていた。これでは出血もかなりのものだったに違いない――事故に遭ったのだろうか。 「検査してみるから……ちょっと血採るね」 泰孝は言って看護婦に指示し、採血させた。 その間診察を続けながらふと気付くと、男はいつの間にか診察室の隅の天井近くにある山の神の護符を祀った古い神棚の前におり、姿勢を正して拝礼していた。その様子がなぜかひどく様になっている――見かけによらず信心深いのだろうか? 検査結果がわかる数日後にまた来院するよう伝えると、男は礼を述べ、少年に手を貸して立ち上がらせた。その時男が俯いたのでサングラスの中の目が一瞬直に見えたのだが――その瞳が――血のように真っ赤な色をしていた。泰孝はぎくりとしたが、ただの光の加減だ、と頭を振って気を取り直した。 その晩診察を終えた泰孝が自宅にいると、母から電話があった。両親は診療所の裏にある家に住んでいるのだが、急患が運び込まれて父が診ているので手伝って欲しいと言う。患者の様子を聞くと、どうやら昼間来た少年らしい。泰孝は急いで車を出し診療所へ向かった。 泰孝が到着すると、診察室の外に、昼間来た男の他若い男がもう二人いた。三人とも不安そうに廊下から部屋の中を覗き込んでいる。 「父さん。患者は?どんな様子です?」 泰孝は白衣を羽織りながら訊ねた。 「ああ、悪かったね、呼び出して……熱が高くてね、意識が朦朧としてしまってるんだよ」 父を手伝い抗生物質などを投与して手当てするうち、朝方になって少年の容態はようやく落ち着いてきた。泰孝が振り返ると、付き添ってきた三人はまだそこに動かずにいる。ひとまずもう大丈夫だと伝えると、彼らはほっとした様子で口々に礼を言った。 あらためて見ると奇妙な取り合わせの三人だった――昼間来た男はそのままのスーツ姿で、相変わらずサングラスをかけている。もう一人の男は大柄で色黒、坊主頭にがっしりと筋肉質な体を持ち、プロレスラーのようだった。あとの男はやせて小さく、こげ茶色の皮ジャンを羽織り、短く立った頭髪も染めているのか服と同じこげ茶色で、目が妙に大きく鋭かった。 診療所は小さいが入院設備があるので、少年を病室の方に移し点滴を続けることにした。呼吸や心音も正常になり今は眠っている。三人の男は付き添いたいと言うので病室に入れてやった。父が、もう大丈夫だから帰って休んでくれというので、何かあったら連絡をくれるよう言い残し、泰孝は診療所を出た。 家で仮眠をとってから診療所へ戻った泰孝は、入院させた少年の様子を見ようと病室に立ち寄った。よく眠っているようで問題はない。顔色も昨日よりかなりいいようだ――ひと安心だ。 その後、頼んで急いでもらった検査の結果が届いた。だが――それを確認した泰孝は首をひねった。数値が異常に悪いのだ。なにかの間違いだろうか? この結果だと、昨夜運び込まれてきた時の状態はもっと悪く、手遅れになっていてもおかしくなかったはずだ――が、とりあえず患者の症状は今は安定していて、心配する点は無く思える。泰孝は奇妙に感じたが、回復してきている分には別に問題なかろう、と自分を納得させた。 診療の合間、昼食を取るため裏の実家に行こうと駐車場を横切りかけていた泰孝を、看護師の和泉(いずみ)が呼び止めた。 「若先生すみません、あの、入院されてる患者さんのことなんですけど……」 「ああ、夜勤とかだったら別に必要無いよ。もう安定してるし、親父たちが看るって言ってるから」 「はい……あ、いえ、そうじゃなくて……あの、さっき、病室を巡回したときに……そのう……」 彼女は酷く言い難そうにしている。和泉はずっとここに勤めてくれているベテラン看護師で、普段はてきぱきとした女性だ。こんな風に言いよどむのは珍しかった。 「あの患者さんが?どうかした?」 「いえ、あの……見間違いかもしれないんですが」 彼女が点滴を確認しようと病室の前まで行った時、あの白スーツの男が少年の枕元に向こうむきに腰掛けていた。廊下から何気なくその様子を見ていると、男はポケットから取り出した小刀で自分の手首の辺りを横にぐっと切った。それから彼は、患者の少年を抱き起こし、傷付けた腕を口元に近づけて血を啜らせたのだ、と言う。 「私あんまり驚いて、大声ではなかったけど、ひっ、ていうような悲鳴上げちゃったんです。そしたらあの男の人が振り返ったんですけど、その瞳が……真っ赤に見えて……」 「瞳が真っ赤?」 和泉は頷いた。顔が青い。 「私が動けないでいたら、彼すぐ患者さんを元通り寝かせて、立ち上がってベッドから離れました。傷は服の袖に隠れて見えなかったです。でも結構深く切ったようだったので、そんなすぐ血が止まるはずはないと思うんですが……瞳が赤かったのは、あの人サングラスをかけてしまってたので、私の見間違いかどうか確かめられませんでした……」 泰孝は考え込んだ。彼女が嘘をついてるとは思えないし、そんな必要もない。血を飲ませる……?なにかおかしな信仰にでもとりつかれてるのだろうか? 「全部私の勘違いかもしれません。でも……今夜、院長先生と奥さんだけにして大丈夫でしょうか。若先生、私、なんだかあの人達、気味が悪……」 そこまで言って、和泉は急に泰孝の後ろを見て口をつぐんだ。泰孝が彼女の視線の先を振り返って見ると、あの三人のうちの一人、こげ茶色の髪をした痩せた男がそこに立っていた。いつの間に来たのだろうか。 「先生、いつあの子連れて帰っていいですかね?」 男は大きな目で泰孝を見据えて尋ねる――その白目の部分が――金色がかって見えた。あのスーツの男といい、この男といい、一体――? 「まだ暫く様子を見ないとなんとも言えないよ」 警戒して思わずつっけんどんな口調になった。 「訊いていいかな?君たち、どこに住んでるんだい?あの子とはどういった関係なの?」 泰孝は続けた。 「聞けば、健康保険も無いって言うじゃないか。まさか妙な……宗教団体とかに入ってやしないだろうね?」 もしそうなら、あの少年を自分が保護する必要があるかもしれない。 「若先生……」 和泉が脅えて小さな声で言う。 「しゅう……?なんです?それ」 怒り出すかもと思って警戒していたのだが、若い男はきょとんと首を傾げて不思議そうに泰孝に訊き返した。とぼけてるようには見えない。その様子が鳥のようで妙に愛嬌があったので、泰孝は少し肩の力が抜けた。 「いやその……さっき戻って来た検査結果があまり良くなかったものでね……」 泰孝が言うと、男は 「良くなかったですか」 と不安げに繰り返した。 「う、うん。ええと……だから、本当にもう大丈夫かどうかがちゃんと確認できるまで、いつ退院できるかは答えられないんだ……」 「そうなのか……はい、わかりました。じゃあ……よろしくお願いします」 男は意外に礼儀正しい仕草で泰孝と和泉に頭を下げると――それはあの白スーツの男が神棚に拝礼していたときの様子を思い出させた――二人に背を向け、診療所へ戻って行った。 泰孝は和泉に 「じゃあ俺……今日から暫くここに泊まって親父と一緒にあの子の様子見ることにするよ。だから和泉さんは心配しないでいいからね……」 と伝えた。

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