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第20話
二人が診療所に着くとくまが庭にいた。カエデが駆け寄る。
「くまちゃんただいま。待っちゃった?」
「平気。奥さんに、おやつもらってたんだ」
くまは嬉しそうに大福を頬張っている。奥さんと言うのは竣平の祖母の事だ。祖母は大男のくまを特に怖がる風もなく、親しくしているようだ。
「あ、今日ね、新しいとこ行くから。大体準備できたから」
くまが口をもぐもぐさせながら言う。
「引っ越し先ってどこなの?」
竣平が尋ねると、くまは
「坊ちゃんも連れてってあげようか」
と言って大福の粉がついた手をはたき、変化 して二人を両肩に担いだ。だが前に見た時のように大きくはない。何段階かに調節できるのだろうか?なかなか便利だ……と峻平は考えた。
二人を担いだくまは地を蹴って走り出した。大きさのせいかスピードは息ができなくなる程ではなく、肩の上は揺れるけれど風が心地よく楽しかった。竣平はカエデと顔を見合わせて微笑んだ。
くまは、修復が放棄された道路のアスファルトが崩れた箇所も、薮の生い茂る山の斜面も難なく走り抜けてしまう。やがて着いた先は、見覚えのあるあの、洋館のような形をした建物の前だった。
「ここって……」
肩から下ろしてもらった竣平とカエデが辺りをきょろきょろ見回していると、とんびが前に下り立った。ヒトには変化しておらず、こげ茶の羽根が薄汚れて白っぽくなっている。
「とんちゃんなんだか汚いね……どうしたの?」
カエデが尋ねると
「天井の煤払いしたんで汚れっちまったんだよ。そういう気ぃ遣う仕事はおいらしかできないからさ。ちょっと川で体洗ってくらあ、ここにあるヒトの風呂は使い辛くて。あのシャワーってやつぁいきなりあっついお湯が上から降ってきやがって、どうもいただけない……」
そうブツクサ言いながら飛び去っていった。
中に入るとがらんとしたロビーになっていた。奥に廊下が続き、その先にいくつかドアが並んでいる。そのうちの一つからやぎが姿を表した。
今日はサングラスをかけてないので赤い瞳が見えるが、竣平は慣れたのか、もう恐ろしいとは感じなかった。やぎは変化の時に目の色だけが人間らしく変えられなかったので、カエデに助言されて拾ったサングラスをかけていたのだそうだ。
「とりあえず風呂場と、カエデの部屋だけ先に綺麗にしといた。上なんだ、おいで。あ、階段のとこ、かまいたちが寝てるから踏まないように気をつけてやってな」
「か、かまいたちがいるの!?切ってくる!?」
竣平はびっくりして階段にかけようとしていた靴先を引っ込め、片足立ちになって下を見た。なるほどすみっこの暗がりに小さい茶色の生き物が丸まっている。
「大丈夫。脅かしさえしなければおとなしいもんさ。それに時々用事を与えて退屈させずにいてやれば、やたらにヒトを襲ったりはしないよ」
「そうなのか……」
峻平はそうっと、寝ているかまいたちの脇を通り抜けた。
案内しながらやぎはカエデに説明した。
「あの虫どもが巣づくり用に準備してた場所だけど、静かで広いし、中をちょっと直せばカエデも住めるようになると思ったんだ。ヒトがほったらかして行った道具も色々残ってるよ。山の源泉からお湯がひいてあったから、いじって出るようにしてある」
彼が連れて行ってくれた部屋には、デスクやベッドなどがちゃんとしつらえてあった。
「すごいや……これ全部用意してくれたの?」
カエデがあたりを見回しながら言う。やぎは頷いた。
「置きっぱなしになってたのを集めて、修理しただけだけどね」
竣平は窓に近づいて外を覗いた。自分の住む新興住宅地のある小さな山がここからよく見える。その後ろにはさらに、大きな山々が連なっていた――ここは廃業したホテルだと瑞生が話していた。だから景色のいいとこに建ててあったんだ。
「いい眺めだなあ……カエデ、あそこに俺んちも見えるよ」
「え、ほんと?どれ?」
「あそこにあるグレーの瓦屋根わかるか?あれが俺んち……うわあっ!」
いきなり目の前に、とんびの顔が逆さに現われたので竣平はびっくりして叫んだ。
「とんちゃん!おどかしちゃだめだろ!」
カエデが叱る。
「ごめんごめん。ははあ、坊ちゃんち、まっすぐ向かいだね。こりゃあ近くて便利だ。用があったらすぐ飛んでけるな」
とんびは外から窓枠に鉤爪でへばりつくようにとまって言った。
「そ、そうだね、確かに……飛んでったらすぐだ。俺には無理だけど」
まだドキドキする心臓を押さえながら竣平は答えた。
「おーい。おやつだよう。みんな来いよう。早く来ないとおいら全部喰っちゃうぞう……」
くまが外から呼んでいる。
「おやつって……くまちゃんさっき大福食べてたのに……」
苦笑しながらカエデが言った。
皆が表へ出ると、濃い紫の大きな実をつけたぶどうの房が、地面に敷かれた葉の上に山積みにされてある。
「うわ、すげえ。巨峰かな?」
竣平がびっくりして言うと
「これ、やまぶどうだよ!すごい……!」
カエデが目を輝かせて答えた。
「大好きなんだこれ……でもこんな立派なやまぶどう、前にいた神様の山でしか採れなかったのに!」
「山神様からの引越し祝いだよ。今届いた。食べようよ」
くまが言う。
竣平はぶどうの房に手を伸ばし、一粒とって口に入れてみた。
「あ!うまいやこれ」
売っているぶどうのような強い甘みはなくいかにも野生のものらしかったが、豊かな自然の味がした。
皆ぶどうの山の前に座り込んで食べ始めた。
やぎが房をいくつか脇に取り分けて言う。
「あとで若先生のとこにも持ってこう。お世話んなったから」
「とっとかなくても大丈夫。ほら」
くまが、今出てきた洋館の方向を指差した。その先、建物の後ろに、太い蔓が絡み合った巨大な木が生えている。
「山神様が贈って下さったやまぶどうの木。おいらたちがここにいる間は立派に繁って、たんと実をつけてくれるんだ。あんなに大きな木なら、きっと食べきれないくらいできるよ」
もしかして、この山怪たちには豊穣をもたらす力があるのだろうか――竣平はぶどうを頬張りながら、たくさんの葉をつけたやまぶどうに目をやった。
熟すのを待っているらしいまだ青いぶどうの房がそこここに下がっている。気のせいか、その木を取り囲む植物たちの葉の色が、さっきよりも濃さを増し活き活きとしてきたような――建物の前の崩れた道路の割れ目から伸びる草も、一際大きくなった風で――
山が――目を醒ました……
青々と生い茂った木々の葉を風が撫でながら通り過ぎ、その行く先が見えたように感じながら――竣平はそう心の中で呟いた。
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