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花が咲いたように

「あ。それなら俺、社員食堂のハンバーグがいいです。さっき同じ営業部の人から、なかなか美味しいって聞いたんで」  結城が無邪気な顔で希望を述べる。『社長の息子』という肩書きにはそぐわないその慎ましい願いを、篠宮は意外に感じた。いくら内縁の子とはいえ、生活費は充分に受け取っていただろう。愛情の面で寂しい思いをすることはあっても、経済的には困っていなかったはずだ。彼が身につけているスーツや鞄を見ても、余裕のある暮らしをしてきたことが一目で分かる。 「社食なら明日でも行けるだろう。今日は外に食べに行かないか。寿司でもなんでもいいんだぞ」  部長も同じことを思ったのだろうか。(いぶか)しげな声を出し、結城に考え直すよう促す。だが、結城はあくまで最初の考えを貫き通した。 「お気持ちはありがたいんですけど、午前中からその話を聞いちゃったんで、今日は社食ハンバーグの気分なんですよねー」  対するこいつも食えない奴だな。一見能天気そうに話している結城の表情を、篠宮は横目で見遣った。別に寿司を奢ってもらったからといって、便宜をはからなければいけないというわけでもない。そこをあえて断るのは、部長の思惑を察して、あらかじめ牽制しているのではないか……いや、そう考えるのはさすがに深読みのしすぎかもしれない。 「そうかそうか。まあ、こんど歓迎会も兼ねて、若い連中を連れて飲みに行こうじゃないか。篠宮くんも来るだろう? 一緒に美味(うま)い物でも食べながら親睦を深めるといい。結城くんは、酒はいける口かい? 実は篠宮くんはこう見えて、なかなかの酒豪でね」  最初の一手に固執することなく、部長はすぐに次の作戦を繰り出した。 「そうですねー。篠宮主任が行くのなら、ぼくもぜひ参加したいと思います」  結城がにこやかに答えた。彼が笑顔を見せると、ぱっと花が咲いたように周りが明るくなる。その姿をちらちらと眺め、女性たちが頰を染めながら通り過ぎていくのが見えた。 「美味しかったですねー。次はカレーも食べてみたいと思います。本当にご馳走さまでした」 「いやいや、気に入ってくれたのなら何よりだ。若い人はやはり、ああいうのが良いのかな。それでは、私は午後から会議があるのでここで失礼するよ」  表面的には(なご)やかな昼食が終わり、部長が満足そうな顔をしながら去っていく。自分の席に戻ろうとした篠宮は、用事を思い出して隣の結城に声をかけた。 「ちょっとマーケティング部に寄って資料をもらってきたい。君は先に行っていてくれないか。まだ時間があるから、社内を自由に回ってみるといい。一時には席に戻っていてくれ」 「解りました。迷子にならないように気をつけますね」  茶目っ気たっぷりに言い放って、結城が階段を降りていく。軽い溜め息と共にその姿を見送ってから、篠宮はマーケティング部へと向かった。  こんど輸入するワインのデータを送ってくれるよう手短かに依頼してから、先ほどの結城と同じく階段を降りようとする。何人かの女性が黄色い声を上げているのが階下から聞こえ、篠宮は足を止めた。  女性たちに混じって、結城の声も聞こえたような気がする。身体(からだ)を傾け首だけを伸ばして、篠宮はそっと陰から様子をうかがった。  階段を降りきった所で、結城がさっそく女性たちに取り囲まれているのが見える。隣の部署、商品企画部の女性陣だ。  おそらく、営業部に若くていい男が入ってきたということで、軽くお近づきになるつもりで集まってきたのだろう。商品企画といえば、常に市場ニーズを把握し、一歩先を行かなければ成り立たない部署だ。さすがに情報が早い。 「結城さん! これ、新商品のサンプルなの。自信作だからぜひ飲んでみてほしいな」 「おっ、ありがとう。俺コーヒー好きなんだ」 「困ったことがあったらいつでも言ってね。この会社の中も、判らない場所は私たちが案内するから」 「ありがとう、助かるよ」  仕立ての良さそうなスーツを粋に着こなし、女性たちに囲まれて笑顔を振りまいているさまは、ホスト以外の何者でもない。結城奏翔(かなと)。よくよく考えてみれば、名前までホストの源氏名のようだ。  このまま進むべきか迷い、篠宮は立ち止まって逡巡した。せっかく楽しく談笑しているのに、ここで自分が出ていったら一気にみんな黙り込んで、気まずい雰囲気になるだろう。そのくらいの自覚はあった。 「それにしても、結城さんも災難よねー。あの篠宮主任の下に付かされるなんて」 「ほんとほんと。毎日が針のむしろだわ」  ……余計に出て行きづらくなってしまった。そして、自分の悪口を言っている場面に行き当たってしまうというのは、解ってはいてもそれなりにショックではあった。 「えー、なんで? 篠宮さん、カッコいいじゃん。教えかた丁寧だし、優しいし。俺、好きだよ」 「美形なのは認めるわよ。でも、あれのどこが優しいのよ。結城さんって、もしかしてドM?」  誰が言っているのかは判らないが、声だけははっきり聞こえる。言うに事欠いて、ついにあれ呼ばわりだ。

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