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冷たくされると

「褒めてください篠宮さん。俺、いい子にしてましたよ」  結城がにこにこしながら篠宮の顔を見つめている。頭なでなでしてくださいと言わんばかりの表情だ。  まともに相手をするのも面倒で、篠宮は黙りこんだまま、冷ややかな眼で一瞥した。こんなろくでもない冗談は無視するに限る。その様子を見て、牧村が苦笑いした。 「相変わらず冷たいなあ。少しぐらい優しくしてやればいいのに」   結城が篠宮に憧れの気持ちを抱いているということは、いまや営業部で知らない者はいない。あまり深くは触れず、時々からかう程度で済ませてくれているのがせめてもの救いだ。 「冗談じゃありません」  篠宮は吐き捨てるように言った。牧村の苦笑いがさらに深くなる。 「はいはい。なあ結城くん、いいかげん諦めたほうがいいんじゃないか? 君なら他にいくらでも相手がいるだろ。なんでわざわざ無理めのとこに行くんだよ」 「いいんです。俺、冷たくされると燃えちゃうタイプなんですよ。篠宮さんの、そういうつれないとこも好きなんですよねー」 「重症だな」  それだけ言い残して、牧村主任は笑いながら去っていった。  あらかじめ総務部に連絡しておいたおかげで、社用の車はすでに万全の状態で用意されていた。  鞄を後部座席へ放り込み、万一のことを考えて助手席に乗り込む。場合によってはすぐに運転を代わろうと思っていたが、意外にも結城の運転は信頼に足るものだった。  生まれつき運動神経がいいのだろう。ペダルの操作も滑らかで、運転が下手な者にありがちな、停車の時に前につんのめる感じがない。以前にも乗ったことのある車のはずなのに、格段に乗り心地が良く感じる。 「あー、ちょっと渋滞してますね。でもこのくらいなら、すぐ抜けられるかな」  少し先のカーブを首を伸ばして見遣り、結城はひたいに落ちかかった前髪を無造作に横へ流した。 「暑くなってきましたね」  外は寒いが、車内はしだいに暖房が効いて適温になってきている。前の車がまだ動かないのを見取って、結城は素早くコートを脱いだ。 「だから、車の中では着なくても良いのではと言っただろう」 「そうですねー。こんなに早く暖房が効くと思ってなくて。やっぱり、篠宮さんの言うとおりにしておけば良かったな」  脱いだコートを畳みかけた瞬間、前の車が僅かに進む。前方を確認しながら、結城は注意深く車間距離を詰めた。 「済みません、篠宮さん。後ろの空いてるとこに、適当に置いてもらってもいいですか?」  前を見たまま、結城が篠宮の手に黒いコートを押し付ける。そのまま後部座席に置こうとして、篠宮は手を止めた。  驚くほど軽くて柔らかな手触りだ。ブランドのロゴなどは付いていないが、触れてみれば上質な物だということがすぐに判る。おそらくカシミヤだろう。 「いいコートだな」  以前の篠宮なら、誰に向けてもそんなことは絶対に言わなかっただろう。だが結城に対しては、毎日近くで顔を合わせている気安さからか、ふとそんな言葉が口をついて出た。 「あ、それですか? 親父が就職祝いに仕立ててくれたんですよ。カシミアだからだいぶいい値段だったと思うんですけど、親父、なんだかんだ言って俺にはけっこう甘いから。お袋からはネクタイ貰いましたし、兄貴からは靴でしたねー」 「……兄貴?」 「ああ、信太郎さんですよ。親父の最初の子の」  篠宮は記憶をたどった。信太朗。別の会社に出向しているという社長の息子は、確かそんな名前だった。結城とは母親が違うはずだが、たしかに兄ではある。 「仲がいいんだな」  正妻と愛人にそれぞれ子どもがいて、しかも父親が大企業の社長となれば、いろいろと確執があるものではないだろうか。しかし結城はまるで天気の話でもするように、気軽な口調で話題にしている。それは篠宮が思い描くイメージとは違っていた。 「信太郎さんの母親と俺のお袋って、姉妹なんですよ。だから腹違いとはいっても、血の繋がりでいうと本当の兄弟みたいなもんです。仲も良いですよ」 「それは初耳だな」  篠宮は驚いて聞き返した。もしそれが本当なら、社長の長男である信太朗は結城にとって、腹違いの兄であると同時に母方の従兄弟だということになる。 「このことは部長も誰も知らないと思いますよ。親父からすれば、亡くなった奥さんの面影を妹に見ただけなんですけど、世間じゃいろいろ下世話な想像する奴もいますからね。俺たちが海外で暮らしてたのも、お袋が結婚とか相続とか面倒くさいって言ったからなんです。でも甥っ子の信太郎さんのことはすごく可愛がってますよ。なんたって、姉の忘れ形見ですからね」  時に笑みを混じえ、結城は機嫌よく話し続けた。こうも明るい口調で家族について話せるあたり、兄弟の仲が良好だというのはおそらく本当なのだろう。 「部長もご存知ないようなことを、なぜ私に話すんだ」 「えー。だって、篠宮さんだから」  よく解らない答えを返して、結城は屈託なく笑った。  どうやら社長の家庭は、本妻とか愛人とか、サスペンスドラマに出てくるようなどろどろした関係は一切なかったようだ。家庭は円満で、結城は家族の愛情を受けて幸せに育ってきたのだろう。『内縁の子』という言葉の響きから、不遇で寂しい少年時代を過ごしたのだと勝手に想像していたが、それは自分の思いこみだったらしい。

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