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何度目か判らない溜め息

「結城くん」  パソコンでの作業を終わらせて画面を閉じると、篠宮は机の脇にある紙を取った。 「はい」  篠宮の呼びかけに、結城が即座に応答する。返事だけはいい、と篠宮は内心で皮肉げに呟いた。 「うちとの業務提携が決まった、クレメンティーン蒸留所のマークス氏が今度来日するんだ。その際にこちらからもお礼に伺うことになっている。失礼があってはいけないので、一応お礼の言葉の原稿を作ったんだ。君はイギリスに住んでいたことがあると言っていたな。私が読み上げるから、慣用句の使いかたや発音でおかしいところがあったら直してくれないか」  そう前置きをして、篠宮は静かに英文の原稿を読み始めた。育ってきた家庭環境のせいか、昔から英語だけは得意だ。  アメリカの英語に較べて、イギリスの英語は少しゆっくりと、美しく明瞭に発音しなければならない。言い回しも違う部分がある。イギリスの片田舎にある蒸溜所の、昔ながらの堅物な職人に感謝の意が伝わるよう、篠宮は丁寧に言葉を紡いでいった。 「……ん?」  半分ほど読み上げたところで、篠宮は結城の様子がおかしいことに気がついた。原稿を読むのに集中していたため気づかなかったが、よく見ると結城が頰を紅くし、ぽうっとした顔で視線を宙に泳がせている。 「どうした? 体調でも悪いのか?」  心配になって思わず声をかけたが、結城の答えは篠宮の想像とはかけ離れたものだった。 「篠宮さんって、睫毛長いんですね……」  その言葉を聞いて、篠宮は思わずくちびるを噛み締めた。賭けてもいい。たぶんこいつは、一言たりとも聴いていなかった。 「……もういい」  篠宮が低い声でそれだけ告げると、結城ははっと我に返った様子で慌てて弁解した。 「あ……えっと、あの、済みません! つい、見惚れちゃって」  素早い謝罪の言葉に耳だけは向けるものの、もはや何も言う気が起こらない。口許を引き結んで、篠宮は立ち上がった。最近、いつもこの調子なのだ。 「……怒ってます?」  結城が恐る恐るといった様子で問いかけてくる。 「怒ってない。呆れてるだけだ」  仏頂面のまま答え、篠宮は更衣室へ向かった。片手に鞄を持ち、掛けてあったコートをつかんで階下へと下りていく。 「えっと、この後は得意先回りに行く予定でしたよね?」  いちおう午後のスケジュールは把握していたのか、結城は自分の鞄とコートを手に追いかけてきた。 「ああ。下の駐車場へ車を取りに行くんだ。すぐに使えるよう、さっき総務のほうに依頼しておいた」 「電車じゃないんですか?」 「今日の得意先へはいつも車で行っている。電車では少し不便な所にあるからな」 「あ。じゃあ、俺が運転します!」  結城が運転手を買って出た。  篠宮は訝しげな眼を向けた。会社の車で事故を起こすのは勘弁してもらいたい。 「……大丈夫か?」 「こっちでも、親父の車借りてしょっちゅう運転してたから平気ですよ。道もだいたい判ります」 「いや、道のことはカーナビがあるから心配していない。それより君は……その、注意力散漫というか、そそっかしい面があるから……」 「大丈夫ですよ! なんたって篠宮さんを乗せてるんですから、絶対に安全運転で行きます!」  結城が自信たっぷりに答える。運転を任せられるのであればたしかにありがたい。車に乗っている間に、メールの返信やスケジュールの確認ができる。 「解った。お願いしよう」 「はい!」  やけにはしゃいでいる結城を横目で見ながら、近頃の癖になっている、今日何度目か判らない溜め息をつく。背後から声がしたのはその時だった。 「結城くん!」  振り向くと、同じ営業部の牧村主任が立っていた。篠宮が入社した時に新人研修を行ってくれた先輩だ。そのためか、無口と言われる篠宮も比較的言葉を交わすことが多い人物といえる。 「先日の件だけど、やっぱり君の言うとおりだったよ。本当に助かった。ありがとう」  牧村は結城にそう声をかけた。  ……なんの話だろうか。篠宮が怪訝な顔をしていると、牧村は笑顔と共に言葉を補った。 「この前の火曜日の話だよ。外回りから帰ってから、彼に納期の確認をお願いしたんだ。スケジュールを少し組み替えたら、急ぎのお客様に入用な分を、もう少し早く納入できるんじゃないかって指摘を受けてね。おかげで取引がうまく運んだんだよ」  篠宮はようやく思い出した。以前土曜日出勤したぶんの代休を火曜に取り、その日の結城の面倒はこの牧村主任に頼んでいたのだ。 「ああ……そうですね。その節はありがとうございました。お礼を言うのも忘れていて申し訳ありません。なにぶん私の教えかたが至らないもので、さぞかしご迷惑をおかけしたのではありませんか」 「とんでもない。かえって助かったよ。君が入ってきた時もそう感じたけど、結城くんも本当に優秀だね。細かいことによく気がつくし、仕事は早くて丁寧だし、ミスも一切ないし。俺もうかうかしてられないな」  本当だろうか。篠宮は信じがたい思いで眉をひそめた。牧村の言うなにもかもが、自分が知っている結城のイメージとはかけ離れている。

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