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偏った好意

 昼食のサンドイッチをもうすぐ食べ終わるという頃になって、不意に横から声をかけられた。 「……あ、篠宮さん。まだここに居たんですね」  顔を上げ、篠宮は声のしたほうを見つめた。外の芝生に行ってきたのだろうか。髪に落ち葉のかけらを付けた結城がそこに立っている。  篠宮は、社内で昼食をとるときはたいていこの休憩所を使うことにしていた。少し奥まった所にあり、昼間でも比較的静かな穴場なのだ。おそらく、誰かからそのことを聞いてここへやってきたのだろう。  篠宮は時計を見た。みんなに連れられていってから、まだ三十分も経っていない。 「早かったな」 「一応メシは食ってきたんですよ。でもやっぱり、篠宮さんのそばに戻りたくて」  座っていいですかと訊くこともなく、結城は当然のように、篠宮の隣の席に腰を下ろした。  どんな言葉を返していいか判らず、篠宮は困惑して眉をひそめた。単なる憧れにしては異常な気がする。  刷り込み、という言葉がふと頭の中をかすめた。鳥の雛が、殻から出て初めて見たものを母親と思い込む、あれだ。 「篠宮さんが迷惑だって言うなら、絶対に話しかけません。石ころかなんかだと思ってください」  自分の腕を枕にして、結城はテーブルに頭をのせた。顔を篠宮のほうに向け、隣にすわる彼をうっとりした表情で見つめている。視線を感じて篠宮は眉根を寄せた。気にするなと言われても、気になって仕方ない。 「そこでぼうっとしてても面白くないだろう。他のみんなと楽しく話でもしていたほうが良かったんじゃないか」 「そんなことありません。隣にいるだけで幸せです」  夢見るような声で呟き、結城は眼を閉じた。そのうちに微かな寝息が聞こえ始める。眠ってしまったようだ。  まあ今は昼休みだから、別に咎め立てすることでもない。時間になったら起こせばいいだろう。午後は結城を連れて、最低でも十件の得意先回りをする予定だ。今のうちに休んでおくといい。 「……ずいぶん大きなワンちゃんだわね」  天野係長がぼそりと呟きながら通り過ぎた。  ◇◇◇ 「篠宮さん。これ、どうぞ」  パソコンの画面を見つめる篠宮に、結城が細長いペットボトルを差し出した。  女性に好まれそうな、洒落たロココ調のデザインに仕上げられたそのラベルを、篠宮はまじまじと見つめた。昨年末に発売して以来、順調に売り上げを伸ばしている果汁入りの紅茶飲料だ。 「ティアレの新しい味、マスカットです。さっき飲んでみたんですけど、美味しいですよ。これ、絶対売れると思います」  結城が無邪気に微笑む。篠宮はひたいに手を当てた。最近、眉間のしわが消えない気がする。原因は解っている。眼の前のこいつのせいだ。 「まあ、まだ販売前のサンプルなんですけどね。(いと)しの篠宮さんにも持ってってあげなさいって、企画部の人がもう一本くれたんです。なので、ありがたく貰ってきました」  なんの悩みもなさそうな結城の笑顔を見て、篠宮はあまりの羨ましさに胸が焦げつきそうな気持ちになった。  早いもので、結城が入社してからもう一か月が経った。彼の、あのはた迷惑な好き好き攻撃はいまだに続いていて、篠宮の周りでは何かと話の種になっている。もちろん、本気で信じている者などほとんどいないだろう。単にからかって楽しんでいるだけなのだ。  篠宮は手にしたペットボトルをもういちど見遣った。貰ってきた経緯が経緯だが、まあいい。喉が渇いていたところだ。  蓋を開け、篠宮は続けて二口ほど飲んでみた。葡萄の爽やかな風味が喉を通り過ぎていく。少し甘く感じるが、疲れた時はこのくらいがちょうどいいのかもしれない。 「たしかに美味(うま)いな。デザインもいい」 「でしょ?」  まるで自分の手柄であるかのように、結城が嬉しそうに顔を覗きこんでくる。  篠宮は無遠慮に眼を逸らした。時が経てば熱意も薄れるだろうと思っていたが、一か月経った今でも状況はまったく変わっていない。それどころかますますひどくなっているような気がする。  ここは職場なのだから、あからさまに偏った好意を示されるのは、冗談でも困る。最初からはっきりそう言えば良かったと今になって思うが、タイミングを逃してしまった。  仕事ぶりについても、難易度の高い仕事を簡単にクリアするかと思えば、誰でもできるような仕事でミスをしたりと、どうも使いどころに困る。一人で仕事をさせるとそこそこ要領よくこなしていくのに、二人で組むとなぜかぼんやりして、上の空でいることが多かった。こちらが話をしても、内容の二割は抜け落ちている。  自分が新人の指導に向いているとは思っていないが、それでも順を追ってきちんと教えてきたつもりだ。説明の仕方が悪いのだろうか。こうなると真剣に悩みたくもなってくる。

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