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いつかきっと

「違うわ。でも、山口さんと佐々木さんも知ってる人よ」 「だから誰だよ。もったいぶらずに教えろよ」 「それはね……」  とっておきの情報を耳打ちするかのように、彼女が重々しく口を開いた。 「篠宮主任よ」  一瞬の沈黙が流れた。 「……へえそうなんだー。がんばれよ結城」  しばらく経つと、山口が不承不承といった顔をしながら棒読みで答えた。まともに取り合う様子もない。当然といえば当然だ。 「あの、結城。それってマジな話?」  隣に居た佐々木が、何を思ったか声をひそめて尋ねた。 「マジです。大マジです。でも俺、男が好きなわけじゃないですよ。 篠宮さんが好きなだけです」  結城がためらわずに答える。篠宮は頭を抱えた。このふざけた会話の流れについていけない。 「ちょっと佐々木さん、なに突っ込んで聞いてんのよ。キューピッド役でもするつもり?」 「いやあ……まあ、それもアリかなと思って。結城がそっち側に行ってくれたら、俺らの取り分も増えるし」  真面目な顔でそう答えてから、佐々木は結城に向き直って話を続けた。 「でも、気をつけろよ結城。うちの会社って社内恋愛禁止だからさ。篠宮主任と恋人同士になったとしても、バレたらクビか、良くて地方に左遷だぞ」 「……そんな心配はいらない」  ついに無視しきれず、篠宮は低い声で言い放った。  山口が、隣の同僚を肘で小突く。冗談はそのへんにしておけという合図だろう。  同じ会社の営業部に所属する上司と部下が、あろうことか男性同士で交際する。そんなたちの悪い冗談を好まないのは、普段の篠宮の様子を見ていればすぐに解ることだ。佐々木は慌てて作り笑いを浮かべた。 「そっ、そうですよね! あはは」  篠宮たちの会社には社内恋愛禁止という、アメリカなどでは一般的だが、日本ではあまり馴染みのない規則がある。賛否両論あるものの、篠宮個人としては会社のこの規定に大いに賛同していた。  会社というのは仕事をする場だ。賃金をもらっている以上、従業員はそれに応じた働きをする義務がある。  だが恋愛感情が絡むと、どうしても公正ではなくなる。一人だけ特別扱いをしたり、昇進の対象にしたりというケースが必ず出てくるだろう。  相手から一方的に向けられた想いなら断ることもできるが、両想いとなれば、おたがいに馴れ合って仕事に支障も出てくる。社内恋愛禁止という規定は、万事に公平を期して、業務を円滑にするためのものなのだ。 「……だってよ、結城。他の奴ならともかく、篠宮主任は無理だと思うぞ。まあ営業として憧れる気持ちは解るけどな。がつがつしてる感じでもないのに、さらっとデカイ注文取ってくるあたり」  その場の雰囲気をどうにか(なご)ませようと、佐々木が顔を引きつらせながら口を開いた。企画部の女性が、明らかに愛想笑いと思われる笑顔を見せて、すぐに言葉を継ぐ。 「ね、結城さん。気分変えてごはん食べに行きましょうよ。私がなにか美味(おい)しいもの奢ってあげるから。他に好きな人が居ても仕方ないわ。結城さんになら喜んで貢いじゃうわよ」 「そうだ。天気いいし、外で食べねえか? この前のイベントで使ったブルーシート、まだあるからさ」 「でも俺、篠宮さんと一緒に居たい……」  周りが熱心に言葉をかけているにもかかわらず、結城は未練たらしく篠宮のほうを見つめている。  憧れが昂じて、少しおかしくなっているのだろう。本気で怒るのも大人げない。軽く息をついて気持ちを落ち着け、篠宮は静かに(さと)した。 「せっかく誘ってくれているんだ。一緒に行ったらいい。私は朝のうちに買ってきてあるから、休憩所で済ませるつもりだったんだ。午後のスケジュールも、頭の中でまとめておきたいし」  篠宮の言葉を聞くと、結城は微かに眉を寄せ、捨てられた子犬のような表情を見せた。  断ると決めた心が一瞬揺らぎかけ、篠宮は意識して固く口をつぐんだ。こんな顔を見せられると、何やら自分のほうが悪いような気分になってくるが、だからといって彼の気持ちに応えてやるわけにもいかない。 「ほら見ろ、振られただろ」 「大丈夫、みんなで慰めてあげるから」 「そうそう。悪いこと言わないから諦めろ。おまえには高嶺の花だったんだよ」  他の皆が一様に結城を慰めにかかる。 「うーん……」  山口に肩を叩かれ、結城は仕方なさそうに立ち上がった。まだ何か言いたいのか、半泣きの表情で言葉を絞り出す。 「篠宮さん。俺、諦めません。本気なんです。今すぐは無理でも、いつかきっと篠宮さんを振り向かせてみせますから」  先輩に背中を押され、結城が何度も振り向きながら営業部を出ていく。(かす)かに潤んだその瞳が、離れたくないと訴えていた。市場に売られる子牛のような眼だ。  やれやれ、と篠宮は心の中で呟いた。単なる新人教育だけでも面倒なのに、さらには社長の息子であり、信じがたいほど思い込みの激しい性格ときている。とんだお荷物を押し付けられてしまった。  結城たちが去っていくと、なんの騒ぎかと不審そうな眼を向けていた人たちも、再び自分の仕事に戻り始める。何事も無かったような顔をしながら、篠宮は昼食の入ったレジ袋を持って席を立った。  休憩室の椅子に腰かけて空を眺めると、ようやく心が静かになった。ひとまず、今日の昼食は平和に食べられそうだ。午後の予定を頭の中で組み立てつつ、篠宮はペットボトルの蓋を回した。

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