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正々堂々
「親父は、信太郎さんにも俺にも、別に血縁だからって会社を継がせる気はないんですよ。あの人、そこらへんは公平だし……でもきっと、社長になるなら正々堂々、実力で勝ち取ってほしいっていう気持ちはあるんでしょうね。俺がここで働きたいって言ったら、親父すげえ喜んでたんですよ。やっとおまえもその気になったかって」
そう言って結城は笑い声を立てた。ちょっと単純なところはあるが、明るく素直で愛嬌がある。彼のような性格で、息子として自慢できる容姿も備えているとなれば、父親から愛情を注がれるのも当然だろう。就職祝いのためわざわざ仕立ててくれたというコートを見ているうちに、篠宮はある事に思い当たった。
「まさかとは思うが。社長が君の教育係に私を指名したというのは……それは建前上の話で、実際は君が希望したからなのか?」
「あ。バレました?」
結城は、悪戯をする子どものような表情を見せた。
「俺が真面目に働く気になったのは、篠宮さんのおかげだから。だから篠宮さんの下で働きたいって頼んだら、すぐ根回ししてくれました」
渋滞を抜けたのか、結城が徐々にアクセルを踏み込んでいく。
乗り心地は変わらずに快適だったが、篠宮はメールの返信もスケジュールの確認も忘れて深い溜め息をついた。
新人の指導など自分には向いていない。それは自分でも感じている。しかし、仕事には入社以来真面目に取り組んできて、それなりに会社にも貢献しているつもりだ。それを評価されたというのなら、ありがたく受け止めて命令に従うべきだろう。そう思って教育係を引き受けたのだ。
だが、実際はどうだろうか。結局のところ、生活になんの不自由もないお坊ちゃんが『ちょっと働いてみようかな』程度の安易な思いで、気まぐれに指名しただけなのだろう。ただの遊びの延長なのだ。そんな我がままにいちいち付き合っていられない。こっちはいい迷惑だ。
「あと十分くらいかな。意外と早く着きそうですね」
篠宮が複雑な思いで沈黙している中、隣の結城の能天気な声が響いた。
なんとかして教育担当を変えてもらおう。そう決意したものの、どう上司に切り出したものか篠宮は迷っていた。
こういう話は内々に進めるのが得策だ。みんな自分の仕事で忙しく、新人の教育などしている余裕はないだろう。篠宮に代わって自分に面倒ごとが回ってくるかもしれないと思ったら、どんな横槍が入るか判らない。
他の部署と違い、営業の教育係というものは、単に仕事の仕方を教えれば良いというものではない。新人が独り立ちする時は、自分が持っている得意先の何件かを譲るのが通例だ。
譲れば当然、自分の売り上げは一時的に減る。牧村主任は元々オーバーワークなくらい多くの得意先を担当していたから、当時新人だった篠宮に快く譲ってくれたのだ。だが全員がそうとは限らない。なるべくなら引き受けたくないというのが本音だろう。
営業部内では人目がある。それに加え、どこへ行くにも結城がぴったりくっついてくるのでなかなか機会がない。
篠宮は結城の気持ちを慮 った。曲がりなりにも、一か月のあいだ毎日一緒に仕事をしてきた仲だ。ここで篠宮が担当を外れるとなったら、いくら彼でも見捨てられたような気持ちになって、さすがに傷つくだろう。
だが、これは彼のためなのだ。憧れだかなんだか知らないが、根拠のない思いを抱いて自分にへばりついているよりも、他の者に指導を受けたほうが営業として遥かにプラスになる。
機会は突然にやってきた。
ある日の午後のこと。他の部署に書類を届け終わった篠宮は、営業部に戻ろうとして、ふと廊下の先にある休憩スペースに眼を向けた。
遠目でも判る、腰まであるポニーテールが揺れている。天野係長だ。自販機の前で、コーヒーを片手にベンチに腰かけている。昼に取り損ねた休憩を、今ここで取っているのだろう。
篠宮は素早く辺りを見回した。周りに営業部の人間はいない。結城は、なんでも住所変更の手続きがあるとかで、いま総務部に行っている。すぐには戻ってこないだろう。
今がチャンスだ、と思った。
「あの、天野係長」
「ん? どしたの、深刻な顔して」
係長が顔を上げる。篠宮は迷わず口を開いた。他の誰も居ない場所で彼女と話ができるなど、待ち望んでいた願ってもない機会だ。
「結城くんの教育係を他のかたにしていただけないでしょうか。牧村主任あたりが適任だと思います。私にはとても務まりそうにありません」
「えー、でもなあ。部長が、あの子は篠宮主任にお願いしたいって言ってたし」
彼女が渋い顔をする。篠宮は驚かなかった。このくらい、予想の範囲内だ。
「社長のお口添えがあったことは聞いています。ですが……私には無理です」
「なんで駄目なのよ。ちゃんとした理由がなきゃ、あたしも部長も納得しないわよ」
係長が鼻にしわを寄せる。どう答えるべきかと思い、篠宮は少し言葉に詰まった。結城の家庭のことを話すわけにはいかない。
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