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待ち合わせ
ある程度予想はしていたが、篠宮と出張に行くと聞いたときの、結城の喜びようは異常ともいえるほどだった。
「あっちのほうは、もうだいぶ寒くなってますよねー。セーターとか持って行ったほうがいいですかね。夜は会食ですか? うーん、ほんとは篠宮さんと二人で食べたいけど、仕事だからそのへんはしょうがないですね」
楽しそうに呟いては、えへへーと締まらない笑いを浮かべる。まるで遠足を楽しみにする子供のようだ。その様子を見ているだけで、限りなく不安になってくる。
「はしゃいでいる場合じゃない。プレゼンの後に試供品として、得意先の方々に新商品を一本ずつお渡しすることになっている。まだサンプルの段階だが、企画部に尋ねたら、その程度の数なら用意できるそうだ。発注は頼んだぞ。工場のほうにも、前日にその分の荷物が届くと連絡を入れておいてくれ」
得意先限定の工場見学バスツアー。そう銘打ってはいるが、要は接待だ。プレゼンだ受注だ会食だと休む間もなく働かされ、ホテルにチェックインできるのはおそらく夜になるだろう。
自社工場があるその辺りは、交通は多少不便なものの、美しい景観を楽しめる隠れた名所が多くある。お客さまには、山あいの鄙びた雰囲気を楽しみながら午前中をゆったりと過ごしてもらい、午後は最新設備の工場で今後の取引について検討していただくという流れだ。
もちろん営業である自分たちにとっては楽しめる所など一切なく、工場へも新幹線とタクシーで行き、同じルートで帰ってくることになっている。
結城の浮かれようを見ていると心配でたまらないが、もともと能力はあるのだ。現地に行ったら、案外まともな働きをしてくれるかもしれない。そう自分に言い聞かせつつ、篠宮は落ち着かない気持ちで当日を迎えた。
結城との待ち合わせ時間は十時ちょうどだ。
目印となる喫茶店の前に立ち、篠宮は腕時計に眼を向けた。九時五十五分。もうそろそろ来てもいい時間だ。
場所が判らなくて迷っているということもないだろう。先日この近くまで来た際に、ここで待ち合わせだからと、わざわざ立ち寄って丁寧に教えている。
やはり、五分前には来るように言っておいたほうが良かったのだろうか。篠宮は頭を抱えた。あれだけ楽しみにしていたのだから、早々に来るだろうと思っていたのだ。むしろ遅刻しないために、前日から徹夜で待っているのではないかと心配したくらいだ。
九時五十七分。かなりぎりぎりではあるが、遅刻ではない。
新幹線に乗る前にひと仕事ある。得意先のひとつを訪問し、納期の打ち合わせと新商品の購入を提案する予定だ。ここから近いので、歩いても七、八分程度で着くだろう。時間は一時間ほどを見込んでいた。購入については、すぐに話が決まらなければ後日に回すつもりでいる。
九時五十九分。遅い。時間に余裕を持って向かうのは、社会人として常識ではないか。
篠宮は苛々しながら周りを見渡した。結城の姿はない。あれほど人目を引く容姿なら、近くにいればすぐ判るはずだ。
時計が十時ぴったりを示すと、篠宮は間髪を置かず結城に電話をかけた。呼び出し音が何度か鳴り、続けて結城の寝ぼけたような声が聞こえてくる。
『へ?あ、篠宮しゃん? おはよおございます』
「おはようございますじゃない! もう時間だぞ、どこで何してる!」
篠宮が怒鳴りつけると、ようやく結城の意識が覚醒したようだった。がさがさと何かを探るような音がして、次の瞬間、焦った声が電話越しに響く。
『え、もうこんな時間?』
「その様子だと、まだ家に居るのか?」
頭痛がするような思いで、篠宮はこめかみを押さえた。結城と二人で出張に行く。どうなることかと心配はしていたが、朝から遅刻とは予想外だった。おおかた彼女の一人と長電話でもしていて、寝るのが遅くなったのだろう。事によったら、もっと甘く楽しい一夜を過ごしたのかもしれない。腹立たしいことこの上なかった。
「とにかく早く仕度して出てこい。新幹線には間に合うだろう」
『えっ……でも、商談のほうは』
「私が一人でなんとかする。君は例の喫茶店の前で待っててくれ。新幹線の時間には間に合うように戻る」
『ええっ? 篠宮さんが他の奴と二人きりで話すなんて嫌ですよ!』
結城が訳の解らないことを言いだす。まずい。本当に頭が痛くなってきた。
「妙な言いかたをするな! だいたい、君が寝坊しなければこんなことにはならなかっただろう!」
大声で一喝し、篠宮は返事も待たず通話を切った。これが普通の電話なら、受話器を叩きつけているところだ。
不幸中の幸いと言うべきか、商談に必要な資料は自分の手許にある。部下の失態はひとまず放っておき、今は一刻も早く得意先へ向かうべきだと篠宮は判断した。この程度のことで先方に迷惑をかけるわけにはいかない。
結城のことで苛つく気持ちを抑えながら、冷静に商談を進めていく。感情をあまり表に出さない性格であることを、この時ばかりは感謝した。
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