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せめてものお詫び

「……本気ですか?」  放心したように結城が呟く。その眼から大粒の涙があふれだした。 「……済みません」  こぼれ落ちた涙を、結城は手の甲で乱暴に拭った。それでも涙は止まらず、後から後からあふれ出てくる。上司にそんな姿を見られるのが嫌だったのだろうか、結城は顔を隠したまま、逃げるように扉から出ていった。 「まったく。泣くほどのことか……」  篠宮は呆れ返って呟いた。このタイミングで言うのは酷だったかもしれないが、結城も子どもではないのだ。ほとぼりが冷めたら戻ってくるだろう。  先に風呂を使わせてもらおう。微かに残る罪悪感を心の隅に追いやり、篠宮はソファから立ち上がった。  一時間ほどすると結城は戻ってきた。  片手に紙袋を持っている。なにか買い物でもして気を紛らわせていたのだろうか。頰に涙の後はない。少しは落ち着いた様子だ。 「……済みません、篠宮さん」  紙袋を持ったまま、結城は神妙な表情で言った。 「数々の失態、本当に申し訳ありませんでした。篠宮さんが俺に愛想を尽かすのも当然だと思います」  ソファに腰かけながら、篠宮は静かに彼の言葉に耳を傾けた。だいぶ反省しているようだ。雨に打たれた犬のようにうなだれているのを見ると、少し可哀想になる。だが仕方ない。これも結城のためだ。 「愛想を尽かした訳ではない。君は君なりに頑張ってくれたんだと思う。ただ、私とは合わなかったんだ。解ってくれたのならいい」 「あの。せめてものお詫びとして、これ……受け取っていただけませんか」  結城が、手に提げた紙袋から紺色の箱を取り出した。  スコッチウイスキーのプレミアムボトルだ。いちど飲んでみたいと思っていたが、かなり値が張るのでためらっていた物だった。 「上のバーに交渉して、一番いいの買ってきました。一緒に飲んでもらえたら嬉しいです」  結城がそう言って、紙袋からコップと氷の入った袋を取り出す。そのつもりで用意してきたらしい。 「ね、一杯だけ。乾杯してください。最後だと思って」 「……解った。一杯だけだぞ」  ここで断るのも大人げない。篠宮は心の中で自分に言い訳した。別に高い酒に釣られたわけではない。今日の仕事は終わったのだ。明日は休みだし、特に問題ないだろう。 「ロックでいいですか?」 「ああ」  篠宮がうなずくと、結城は氷の入ったコップをテーブルの上に並べた。ボトルを開けて琥珀色の液体を注ぎ、その横にミネラルウォーターを添える。 「もう会うことはないかもしれないけど、俺のこと、忘れないでくださいね」 「忘れるわけないだろう。部署が変わっても、同じ会社に居るんだ。顔を合わせる機会もあると思う」  火のような液体が喉を通っていくのを感じながら、篠宮は、なぜ結城はこんなにも自分を慕っているのだろうかと考えた。結城が入社してから二か月。あの騒がしい日々が終わるのかと思うと、少し寂しい気さえする。しかし、ここで情にほだされてはいけない。もう決めたことだし、結城もどうにか気持ちに折り合いをつけて納得してくれたようだ。 「ん……」  不意に身体が揺れるような気がして、篠宮はこめかみを押さえた。頭がぼうっとする。まばたきのために眼を閉じると、再びまぶたを上げられないほどの眠気を覚えた。  そんなに飲んでいないはずだが。やはり疲れているのだろうか。朝から得意先で商談を済ませ、新幹線に乗り、プレゼンに受注に顧客との会食……さらに風呂に入って一杯飲んだとなれば、眠くなってもおかしくはない。  ……眠くなっても、おかしくはない。  ◇◇◇  頭の奥が鈍く痛む。  篠宮は重いまぶたを上げた。見慣れぬ天井と、ぼんやり灯った間接照明の明かりが見える。  ああ、そうだ。出張先に来ていたのだった。  結城と二人でグラスを傾けた時の記憶が、微かに(よみがえ)る。いつもの習慣で、篠宮はまず時計の在処(ありか)を確かめようとした。いま何時だろうか。カーテンは閉まっているが、外がまだ暗いのは判る。 「ん……」  身体を起こそうとして、初めて違和感に気づいた。  腕がうまく動かない。足も何かで押さえつけられているようだ。自分の姿を見下ろし、篠宮は驚きで眼を瞠った。  全裸だった。  手も足もベッドに縛り付けられている。篠宮は腕を思いきり曲げてみた。ロープ自体にある程度の伸縮性はあるようだが、緩む気配はまったくない。  いったい自分の身に何が起こったのか。信じがたい思いで、必死に頭の中を整理する。部屋の隅の暗がりから、聞き慣れた結城の声がしたのはその時だった。 「……あれ。もう眼が醒めちゃいました? 量が少なかったかな」  優しげに笑みを浮かべながら近づいてくる部下の顔を、篠宮は愕然とする思いで見つめた。手足を縛られた篠宮の姿を見ても、結城は顔色ひとつ変えない。それを見た瞬間、こんな状況に自分を陥れたのは、他ならぬこの男だと確信した。  量が少なかった。そう彼は言った。察するに、なにか薬を盛られたのだ。間違いない。  眠りから醒めたばかりの頭で、篠宮は懸命に自らの置かれた状況を確認した。シーツの上にはご丁寧にバスタオルが敷かれている。昔なにかで見た、男が縛られて手術され、無理やり宦官にされる場面を思い出した。逃げられないよう手足を拘束され、鋭利な刃物で局部を切り取られるのだ。

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