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調子が狂う

「え、でも。たしか四十八名って……」 「それは男性の数だ! 女性も二十五名いる。それでは数が足りないぞ」 「ええっ! そうなんですか?」  結城の顔が目に見えて蒼ざめる。大慌てでツアーの資料を読み直し、彼はくちびるを噛み締めた。 「すっ……済みません。男性の数しか頼んでませんでした」 「数を間違えるなんて有り得ないだろう! 試供品をお渡ししますと、パンフレットに載せてしまっているんだ。さんざん紹介しといて、品物がありませんじゃ、格好がつかないじゃないか!」  声高にそう叫んでしまってから、篠宮は後悔して口をつぐんだ。  彼だけのせいにするのは間違っている。上司ならその程度のミスはあらかじめ予測して、事前に確認しておくべきだったのだ。  喫茶店に切符を忘れた時も、そう思ったではないか。自分が最後に座席をあらためるべきだったと。遅刻の件にしても、きちんと間に合う時間に一本電話を入れておくべきだった。そのくらい上司として、教育係として当然ではないか。  これが他の人間だったら、自分はそうしていただろう。篠宮は想像してみた。言われた仕事はそこそこできて、多少は不真面目で、容姿も十人並みで、すべてにおいて平凡な部下。そんな部下だったら、自分は適切に指導して、元々の能力以上に成長できるよう育てられたはずなのだ。  それを怠ったのは、相手が結城だったからだ。彼のことになると、なぜか心が乱れてしまう。  調子が狂う……そう、調子が狂うのだ。こんなふうに怒鳴るなど、今まで他の誰にもしたことがなかったのに。相手が彼だと、なぜか平静が保てなくなる。感情を抑えることがひどく難しくなってしまうのだ。 「済まない……言い過ぎた」 「いえ、俺が悪いんです。申し訳ありません」 「言い訳は後だ。それよりも、どうにか方法を考えないと」  誰の責任だと、こんな所で問答していても仕方がない。過ぎたことは過ぎたことだ。とりあえず、今この場でできることを考えなければならない。プレゼンまであと一時間しかないのだ。それまでになんとかしなければならない。 「……あの、篠宮さん。ここの工場で生産してる、桃とメロン……でしたっけ? あれもけっこう人気ありますよね。他のフレーバーも用意して、お客さんに選んでもらうってのはどうでしょうか? パンフレットには、なんの味かまでは書いてません。全員に新商品は渡らないけど、いちおう体裁は保てます」 「……そうだな」  篠宮はうなずいた。たしかに今できる中では、それが最善の策だろう。 「俺、工場の人に掛け合ってきます!」  それだけ言い置くと、結城は矢のように駆け出していった。  プレゼンに受注、そして立食形式の会食を終え、ようやくホテルにたどり着いた頃には夜の九時を回っていた。  ソファに身を沈め、篠宮は眼を閉じて大きく息をついた。出張の仕事が終わった後の疲労感ときたら、並大抵のものではない。割に合わないといつも思う。世間には会社の金でいろんな所へ行けて羨ましいなどと言う輩がいるが、とんでもない。激務もいいとこだ。  篠宮は室内に視線を向けた。寝室兼居間のような部屋に、ベッドがふたつ並んでいる。特にどうということもない、普通のツインルームだ。  プレゼン自体は成功して、新規の契約も取れたが、そこへ至るまでの心労がとにかく尋常ではなかった。 「篠宮さん。えっと……済みませんでした。遅刻のこととか、切符のこととか、発注のこととか」  椅子に座ることも忘れた様子で、結城はすぐそばで棒のように立ち尽くしている。その瞳にいつもの明るさはなかった。さすがに反省しているらしい。 「結城くん」 「はい」 「……済まないが、私は君の教育担当から外してもらおうと思う」  篠宮は重々しい声で告げた。その言葉を聞いて、結城が驚愕の表情を見せる。 「えっ……!」 「どうやら私には向いていないようだ。これ以上私が担当していても、君のためにならないだろう。他の誰かにお願いしようと思う」 「嫌です。俺、篠宮さんじゃなきゃ」  結城がすがるような瞳を向けてくる。顔を背け、篠宮はその眼を見ないようにした。  彼といると苛々する。彼に対してではない。彼がなにかするたびに、簡単に揺れ動いてしまう自分の心が腹立たしいのだ。今この瞬間でさえそうだ。彼の表情を見てしまったら、教育担当を辞めるという決意が揺らいでしまう。彼のせいで冷静な判断ができなくなってしまうのは嫌だった。 「もう君に振り回されたくないんだ。社長に直談判でもなんでもして、君の担当から外してもらう。もうひとつ。私は、営業部を辞める」 「嘘……嘘ですよね、篠宮さん? 営業部一の出世頭っていわれてた篠宮さんが、営業を辞めるなんて」 「元々、私は生産部門を希望してたんだ。月曜になったら上司に願い出て、すぐにでも異動の手続きを頼むつもりでいる」  入社当時から考えていた本音が、口をついて出る。営業など自分には向いていない。もっと単調な仕事のほうが、自分には相応しいのだ。

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