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あなたの世界
これを着ろということだろうか。せっかく用意してくれたのに、無下 に断るのも気が引ける。
好意に甘えて身に着けてみると、どれも自分の物のようにぴったりだった。体格が似ていると感じてはいたが、これほどとは思っていなかった。篠宮は姿見を確認した。これなら誰が見ても、急ごしらえで用意した借着とは思わないだろう。
フェイスシートで顔を拭き、簡単に髪を直す。一応の身仕度が整うと、篠宮は扉を開けた。
「あ。おはよう、篠宮さん」
結城が、フライパン片手に微笑んだ。いつも以上に眩しい笑顔だ。肌は艶々として、内側から光り輝くように見える。
「済みません、あり合わせなんですけど。コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「では……コーヒーをお願いする」
「座っててくださいね。すぐ淹れますから」
椅子を勧められたものの、手伝いも何もせずにいることがためらわれて、篠宮はその場に立ち尽くしていた。結城が鼻歌を歌いながらコーヒーポットを取り出しているのが見える。 なぜ彼はあんなに幸せそうなのだろう。篠宮は不意にそう思った。背中を見ただけで判る。柔らかに跳ねる髪も、楽しげに揺れる肩先も、今にも踊り出しそうな足許も、すべてが幸福で満ちている。
自分がそばにいるからだろうか、と瞬間的に感じた。彼があんなに幸せそうに微笑んでいるのは、ここに自分が居るからなのだろうかと。
少し考えて、篠宮はその思いを頭から追い払った。まさか。自意識過剰だ。休みの日の朝から機嫌が悪い人間など、そうそう居ないだろう。
「……結城」
「え? なんですか?」
コーヒーを計っていた結城が、篠宮の声を聞いて振り向いた。長い前髪が軽やかに揺れる。
「恋人同士というのは……普段、どう過ごすものなんだ?」
なんの脈絡もなく、篠宮は呟くように問いかけた。
「その……私は今まで、女性と付き合った事もないし……恋人といっても、どうしていいのか判らない」
懸命に言葉を選びながら、篠宮は話し続けた。
今もそうだ。彼が朝食を用意しているのを見ても、手持ちぶさたなまま突っ立っている。恋人になると約束したのなら、少しはそれらしく振る舞うべきだろう。
「……篠宮さん」
結城が、コーヒー豆の袋を放り投げて篠宮のそばまで駆け寄ってきた。
「こんな時まで真面目なんですね。俺、篠宮さんのそういうとこ、すごく好きです」
なかば強引に篠宮の手を取り、結城は眼を合わせて微笑んだ。心の奥まで見透かすような、その瞳の輝きに一瞬心を奪われる。
「そうですね。じゃ、手始めにデートしてください」
「デート?」
「どこがいいですか。水族館? 公園? 映画? それとも美術館? 食事は何がいいですか。イタリアン? フレンチ? 中華? 和食? 篠宮さんの好きな物、ぜんぶ教えてください」
正面から真っ直ぐ眼を見据え、結城は畳みかけるように言葉を続けた。
「俺と過ごす時、あなたの世界を、あなたの好きな物でいっぱいにしたいんです。それで……それで」
そこまで言って、結城は彼にしてはめずらしく声を詰まらせた。
「それで……」
頰を赤らめて、しばらく迷ってから意を決したように呟く。
「俺のことも好きになってください」
背中に腕が回された。抗う間もなく、強く引き寄せられる。抱き締められると、心地よい暖かさが全身を満たしていった。
「愛してます」
結城が静かに囁いた。
篠宮は結城の肩に頭を預けた。胸の底が熱くなり、肌にぴりぴりと電気が走ったようになる。それは決して不快な感覚ではなかった。
視線を動かすと、朝食を置いた食卓が視界の隅に入ってきた。
テーブルクロスは温かみのある白だ。紺碧のコーヒーカップには金の縁取りがついている。トーストはきつね色に香ばしく焼け、そばには黄色のスクランブルエッグが添えてある。トマトは眼も醒めるような赤だ。グラスに入るのを待っているオレンジのジュース。艶やかな黒いオリーブ。銀色に煌めくスプーンとフォーク。何もかもが、それぞれの色を持って静かに並んでいる。
どうして彼と出逢うまで気づかなかったのだろう。輪切りにしたレモンの黄色。秋の深さを思わせる林檎の赤。瑞々しい葉の緑。世界はこんなにも美しく、鮮やかな色に満ちているのだ。
「花が……」
抱き締められたまま、篠宮は彼の耳許で小さく呟いた。
「花が見たい」
そう口にしてしまった後で、馬鹿にされるだろうかと思った。小娘じゃあるまいし、花を見に行きたいなどと。
結城が歓声を上げた。
「いいですね! 植物園に行きましょう。今ならきっと、クリスマスローズが咲き始めてますよ!」
顔を輝かせて彼は言葉を続けた。絡めた腕をほどき、ほんの少し身をかがめて篠宮の瞳を覗き込む。
「そうと決まったら、早く食べましょう。冷めちゃいますよ」
迷いもためらいもなく、結城がしっかりと手のひらを握ってくる。その力強い手が篠宮を、温かい湯気の立つ食卓へと誘 った。
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