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【上司の苦労が尽きない件】
正午を告げる鐘が、頭上で微かに響くのが聞こえた。
「……もう昼か」
念のため腕時計を見てから、篠宮正弓 は低い声で呟いた。
コンクリート打ちっぱなしの壁。細い通路だけを残して、床一面に所狭しと並ぶ金属製の棚。その中には、帳票類の入った段ボール箱が雑然と置いてある。
少し離れた場所では、部下である結城奏翔 が篠宮と同じように、段ボールに書かれた文字をひとつひとつ確認していた。
この会社では、発注書や納品書などの伝票は、すべて十年間のあいだ保存することになっていた。昨今のデータ化で紙の書類はだいぶ減ったが、昔の資料などはまだここにある。篠宮たちが探しているのはそれだった。
灰色の壁に囲まれた室内は薄暗く、冷んやりして微妙に黴 くさい。天井にある蛍光灯の明かりは、もともと数が少ない上に棚で遮 られて、ほとんど用を為 していなかった。
墓場のようだ、と篠宮は思った。まあ実際のところ、書類の墓場には違いないのだから、比喩というわけでもない。
正午の鐘が鳴り終わると、辺りを静寂が包んだ。時折り足音がこつこつと響く以外、何も聞こえない。静かすぎて、今が昼間だということを忘れてしまうほどだ。
「……篠宮さん。あれじゃないですか?」
篠宮は声のする方角に眼を向けた。長身の結城が、さらに腕を伸ばすようにして棚の上を指差している。
「あの上の、本棚の所。『社内報』って書いてあります」
彼の報告を聞き、篠宮はそちらに足を向けた。見上げると棚に貼られたシールに、たしかに『社内報』の文字がある。
「そうだな。たぶん、あれだ」
「脚立 持ってきますね」
長い脚で部屋の隅に走り寄り、結城が脚立を持って戻ってくる。篠宮はすぐに登って、棚に並ぶ社内報の束を掴み取った。結城が下で手を添えて支える。
「六十八年……まあ、この辺りでいいだろう」
床に降りると、篠宮は手にした社内報をぱらぱらとめくった。古い物なので少し染みが出ているが、プレゼンの資料としては充分使えそうだ。
「スキャナで読み込みます? 」
「そうだな。読み込むか、写真に撮るか……とりあえず、部に持っていって試してみよう」
留め金を外して脚立をたたみ、注意深く棚に立てかける。手に持った社内報をもう一度そろえ、片手に持ち直したその時だった。
「篠宮さん……」
結城が肩に手を回してきた。何事かと驚く間もなく、そのまま抱き締めて顔を近づけ、くちびるを求めてくる。
「馬鹿、やめろ!」
バシン、と頰を叩く音がした。小気味良い響きが硬い壁に跳ね返り、幾重にも反響する。
「ここは会社だぞ!」
「えー、いいじゃないですか。二人きりなんだから」
結城が頰を押さえながら反論する。どこからどう見ても、まったく悪いと思っていない表情だ。
篠宮は眉を吊り上げた。上司として、ここはきっちり指導しなければいけないところである。
「そういう問題じゃない。給料をもらっている以上、勤務時間内はきちんと仕事をしろ」
「もう、ほんとお堅いなあ。ベッドの中じゃ、あんなに可愛いのに……」
反省するどころか笑みすら浮かべている部下の姿に、篠宮は絶句した。もはやセクハラとかいうレベルではない。
「と、とにかく! それができないのなら、あの話は無かったことにしてもらう」
「えー、それは困ります」
結城が不服そうな声をあげる。あの話。それは、篠宮が結城の恋人になることを承諾した話のことだった。
篠宮は、結城と出逢う前の自分を懐かしく思い返した。それまで平穏だった自分の生活は、彼が現れたことで一変した。憧れという名目で、この部下から暑苦しいほどの愛情を注がれ……甘い顔と声で情熱的に口説かれて、つい受け入れてしまったのだ。
「当然だろう。会社から金だけ貰って働かないような、そんなだらしない奴の恋人になるなんて御免だ」
篠宮は眉をしかめて言い放った。入社時に説明された社内規定を思い出し、さらにひとこと付け加える。
「そもそも、この会社は社内恋愛禁止なんだ。君と私の関係が露見するような、そういう言動は避けてくれ」
「それなら大丈夫です。俺は篠宮さんのこと大好きだけど、篠宮さんはまだ、俺のこと好きじゃないんですよね。つまり、俺の勝手な片想いです。だからセーフですよ」
「そんな理屈が通用するか……」
すでに身体の関係があるのに、片想いだと言い張るなんてひどい詭弁だ。一瞬そう思ってから、篠宮は頭を振って考え直した。たしかに、今のこの関係が社内恋愛に当たるのかは微妙なところだ。
「片想いならいいのか? もし私の気持ちが変わったら、どうすればいいんだ。それでは、私が君に対して、その……そういう感情を抱いた瞬間に、社内恋愛ということになってしまう」
「え。それって、好きになってくれる可能性があるってことですか? 脈あり? ねえねえ」
嬉しそうに、結城は篠宮の背中に手を回した。強引に腰を抱き寄せ、懲りずにキスをしようとする。
「だから、やめろと言っているだろう!」
自分の心の整理もつかないまま。篠宮は、先ほどと同じ頰に再び平手を見舞ってしまった。
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