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世界の損失
「ちょっと、どうしたのその顔?」
営業部に戻った結城の顔を見るなり、天野係長が眉をひそめた。
これから昼食に行くところらしい。スーツの上着を脱いでカーディガンを羽織り、小さなバッグを片手に持っている。ピンク色の毛玉のようなキーホルダーが、ファスナーの端から顔を出し揺れていた。
「いやあ、その。書類保管庫で探し物してたら、棚にぶつかって……」
紅く腫れた左頬を押さえながら、結城が決まり悪そうに笑う。その『棚』は、隣で社内報のページをめくって資料に使えそうな所を探していた。知ったことではない。自業自得だ。
「もうっ、気をつけてよね。その顔に傷なんかついたら、この営業部の、ひいては世界の損失だわ」
大仰に肩をすくめてから、彼女は何か思い出したように口を開いた。
「ああ、そうだわ。ねえ、篠宮くんも聞いて。お昼前に他のみんなには言ったんだけど、月曜の九時十五分から、第一会議室で朝礼があるんだって。一斉メールでも回ってると思うから、後で見といてね」
「月曜の朝ですか……」
話を聞いて、篠宮は渋い顔をした。忙しい月曜の朝に、朝礼で時間を取られるのはあまり喜ばしいことではない。ただの伝達事項なら、メールか回覧で事足りるはずだ。
「そんなに時間はかからないと思うの。経営戦略部に新しい人が入るから、そのご挨拶ですって。なんでもニューヨークまで行って、営業企画のスペシャリストを引き抜いてきたらしいわ。まだ二十代なんだけど、他社でもすごい実績を上げてたみたいなの。どんな人かしら。楽しみね」
「はあ……」
曖昧な返事をしながら、篠宮はちらりと隣の結城に眼を遣った。こいつのせいで『新しい人が入ってくる』と聞くと、ひたすら嫌な予感しかしない。
「いい男だといいわねー。うふふ。じゃ、あたしお昼行ってくるから」
係長が鼻歌まじりに休憩に行ってしまうと、篠宮は社内報に視線を戻した。
「この二枚の写真が使えそうだな。後で許可を取りに行こう。いちおう社内の情報ではあるからな」
そう言って結城のほうを見た篠宮は、彼があごに手を当て、眉を寄せているのに気がついた。なにか考えこんでいる様子だ。
「あの……篠宮さん。さっきの話なんですけど」
「さっきの話?」
「もし篠宮さんが俺のこと好きになってくれたら。俺、頑張ってここの社長になります」
「……は?」
さっきの話とはどの話だ。しばらく考えてようやく、先ほど保管庫で言っていた、社内恋愛に関しての話のことだと思い至る。
「俺が社長になって、社内恋愛オッケーってことにします。そのほうが仕事に張りが出るから。俺、篠宮さんと逢えると思ったら、毎日会社に来るのが楽しくて仕方ないです」
そこまで口にした結城は、何を思いついたのか、急に頰を緩めた。
「そしたら篠宮さん、俺専属の秘書になってくださいね。社長室であんな事やこんな事ー。えへへー」
「……頼むから真面目に仕事してくれ」
上司の苦労は尽きる気配を見せない。篠宮は、複雑な思いを抱きながら嘆息した。
◇◇◇
「篠宮さんってほんと、食べ物の好き嫌いないですよね。すごいなぁ。尊敬します」
「君はあるのか」
「ありますよー。俺が料理始めたきっかけって、自分の苦手なもの入れなくて済むからだもん。ピーマンでしょ、セロリでしょ、にんじんでしょ……」
指折り数える結城の姿を横目で眺め、篠宮はワイングラスを傾けた。口の中に広がる甘い香りを楽しみながら、背もたれに身を預ける。硬さがなく、それでいて柔らかすぎないソファは快適で、自分の家よりくつろげるほどだ。
この部屋……結城の住むマンションに来るのは、これで三度目になる。結城は篠宮が来ることを見越していて、最近では着替えも洗面用具もすべて用意してくれていた。他人から見たら、どう考えても仲のいい恋人同士だろう。
「ピーマンとセロリなら、さっきの料理にも入ってたじゃないか」
「篠宮さんが本当に好き嫌いないのか、試したんですよ。あ、でも。食べてみたら意外に美味しかったですね。篠宮さんと一緒だから、俺も克服できちゃいました」
そう言って幸せそうに笑う。その笑顔を眩しいものに感じて、篠宮はそれと解らないようにそっと眼を伏せた。
結城とこういう関係になってから、三週間が経った。
金曜日の夜は彼の家へ行き、手料理をご馳走になる。その後、ただの上司と部下というには少々親密すぎる時間を過ごし、翌日に帰るというのがなんとなくの習慣になりつつあった。
「このワイン、初めて飲んだけど美味しいですね。やっぱり白のほうが飲みやすいな。篠宮さん、もう一杯飲みます?」
「そうだな。貰おうか」
「はーい」
調子よく返事をすると、結城はボトルを傾けて、かなりの量をグラスに注いだ。続いて、隣にあった自分のグラスにも、同じくらいの量を注ぎ入れる。
「飲み過ぎじゃないか。顔が紅いぞ」
「篠宮さんだって、ほっぺたがちょっと紅くなってますよ。色っぽくて可愛い! えい、チューしちゃえ」
そう言ったかと思うと、結城は篠宮の身体にのしかかって頰にキスをした。
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