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父の面影
ワインと香水の混じった香りが、微かに鼻をくすぐる。大きな犬にじゃれつかれているような気分だ。
「あーもう、今すぐ篠宮さんと結婚したいなー。でもそうなると、やっぱご両親に挨拶しなきゃですよね。困ったな、緊張しちゃいます」
お得意の軽口を叩くと、結城は火照った頰を冷ますように、篠宮の胸に顔を押しつけた。かなりアルコールが回っているようだ。
結婚していいなんて、私は言ってないぞ。普段なら篠宮が苦笑まじりにそう答えて、この話は終わっていただろう。
結城の顔を見おろしながら、篠宮は軽く眼を瞑った。今なら言えるかもしれない。そんな思いを込めて、静かな声で呟く。
「……あいにくだな。私には、両親は居ないんだ」
「えっ……?」
結城が急に真顔になる。
失敗した、と篠宮は思った。だいぶ飲んでいるから、重く受け止めず流してもらえるものと思っていたが……今の自分の一言で、一気に酔いが醒めてしまったらしい。
「そうだったんですか……?」
真剣な表情で、結城がソファに座り直す。篠宮は覚悟を決めた。いちど口火を切ったら、最後まで話すのが筋だろう。
「……母は私が小さい頃に家を出て、今どこにいるのかも判らない。父は私が十七歳の時、交通事故で他界した」
「あの……済みません。俺、知らなくって」
愕然とした顔で、結城が謝罪の言葉を述べる。篠宮は軽く首を振って言い放った。
「別に秘密にしていたわけじゃない。どうでもいい事だから、言わなかっただけだ」
口許をゆがめ、微かに笑みを形づくって見せる。この話を胸に秘め、今まで誰にも言わなかったのは、安っぽい同情を受けたくなかったからだ。だが、彼から向けられる思いならば許せると思った。たとえそれが、安っぽい同情でも。
「父の生家は、代々外交官を務めた家柄なんだ。桁外れの大金持ちとは言えないが、地元では名士と呼ばれ、そこそこ裕福な家だった。私の父は、その家の一人息子として生まれた」
テーブルの上で煌めくグラスを見るともなく見ながら、篠宮は話し始めた。
「経済的には恵まれていたものの、祖父たちは仕事で忙しく、家族で過ごす時間などほとんどなかったようだ。父は家政婦に育てられたようなものだと、親戚の誰かが言っているのを聞いた記憶がある」
結城は何も言わなかった。篠宮の話を一言一句聞き逃すまいと、耳をそばだてている。
自分の育った環境のことを、他人に話すのは初めてだ。そんな思いが頭の隅をよぎった。
「彼が、自分の父と同じ外交官の道を歩き始めた頃……彼は新しく家に来た、小間使いの娘と恋に落ちた。大恋愛だったと聞いている。親の反対を押し切って駆け落ちした二人は、小さな部屋を借りて、そこで暮らし始めた」
そう話しながらも、篠宮は消えない疑問が未だに胸の底にわだかまっているのを感じた。あの父に、そんな情熱的な一面が本当にあったのだろうか。人目を引く長身の姿と、冷たいほどに整った端正な容貌。篠宮が憶えている父の面影は、それだけだった。
……そういえば。あの人が笑った顔など、記憶にあるかぎり一度も見たことがなかった。口数が少なく、会えばいつも他人行儀で、笑うどころか真剣に叱ることすらしてくれなかった。篠宮は皮肉げにそのことを思い返した。
「父は、外交官への道は断たれたものの、学歴だけはあったから就職には困らなかった。愛する人と結ばれ、生活も軌道に乗り、将来的にはなんの心配もない……と、ここまでなら美談だったのだろうな」
いちど言葉を切り、篠宮はワインを一口喉へ流し込んだ。
「父が勤めていたのは、大手の貿易会社だった。もともと才覚があったのだろう。たちまちのうちに出世して、経済的には豊かになった。反面、仕事が忙しくなり、家に帰らない日が何日も続くようになった。今でこそ働きかたがどうとか、余暇の過ごしかたがどうとか言われているが……当時は健康をすり減らしてでも、自分の能力を最大限に活かして、会社のために全力を尽くすのが美徳とされていた」
もう一度、篠宮はグラスを口に運んだ。酔いは身体には回らず、胸の底に重く淀むだけだった。
「そのうちに、会社から単身赴任の話が舞い込んだ。それを受けて海外に行った父は、家に帰る代わりにプレゼントを送って寄越すようになった。ブランドのバッグ、宝石……妻が家事をしなくても済むように、家政婦も雇った。母はそれが寂しかったのだろう。だんだんと家を空ける日が多くなり、終いには帰ってこなくなった。だが、父だけが悪いわけではない。自らがそういう環境で育ってきた父は、それしか愛情の示し方を知らなかったんだ」
いつまでも消えない心の痛みを、篠宮は微笑とともにやり過ごした。これは自分の話ではない。何かくだらない、三流ドラマの話をしているのだ。胸の奥に残る微かな疼痛を忘れるため、篠宮は必死でそう自分に言い聞かせた。
「よくある話だろう。妻は、仕事と自分のどちらが大事なのかと問い詰める。夫はそれを疎んじて、余計に仕事にのめり込むようになる」
ほら、ただの三流ドラマだ。篠宮は心の中でそっと呟いた。
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