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何の感情もなく

「よそに男でもできて、母は出ていったのだろうと……そう大人たちが話しているのを聞いた。だが、ただの噂だ。真偽のほどは分からない。父は海外に行ったまま帰らず、そのうちに、向こうで事故に遭ったという報せが届いた」  あれは卒業式も間近に迫った、ある晴れた日のことだった。休み時間に職員室に呼び出され、深刻な顔をした担任からその事を告げられた。  気を落とさないで。何かあったら相談に乗るから。今日はもう帰っていい。そんな意味のことを言われた。  父の死を知らされたあの日。早咲きの桜の下で、何の感情もなく、ただ呆然と立っていた自分を思い出す。制服の袖のボタンが取れかかっていて、ああ、きちんと付けなければと思った。何故だろう。そんなどうでもいいことばかりよく憶えている。 「涙も出なかった。仕方ないだろう。挨拶を交わすことすらほとんどなかった人間のために、涙など流せるものではない。一度も会ったことのない親戚がやってきて、葬儀も、住んでいたマンションの処分もすべて済ませてくれた。私は、ただ言われるままに動いていれば良かった」  くちびるの端をゆがめ、篠宮は自嘲ぎみに笑った。 「すでに大学に合格していた私は、一人暮らしに相応しいマンションに引っ越して、勉学に打ち込んだ。他にすることもなかったから、成績だけは良かった。就職に関しても特に希望はなくて、勧められた所を適当に受けてみた……それが、今の会社だ」  そこまで話し終え、篠宮は結城に眼を向けた。隣に彼がいることは、篠宮の心に束の間の安らぎをもたらした。 「……ねえ。篠宮さんは、恨まないの? 自分を捨てていったお母さんを。仕事仕事で、ろくに帰ってこなかったお父さんを」 「仕方ないだろう。母は私を捨てていったわけではない。子どもを連れて一人で働いたところで、大した稼ぎにならない事は眼に見えている。無理に連れていって苦労させるより、経済的に安定した夫の元に置いて行くのが妥当だろう。金銭面のことについてなら、両親には本当に感謝している。生活にはなんの不自由もなかったし、父の遺産と保険金で、無事に大学を卒業することもできた」  母は、夫が探しに来てくれることを願っていたのかもしれない。今になってそう思う。父が余計なプライドを捨てて母を探しだし、戻ってきてくれるように頼めば、何かが変わっていたのだろうか。今さら言っても詮ないことだ。 「父は、私が自分の子ではないのかもしれないと最後まで疑っていた。不義の子かもしれないと疑いながら、決定的な証拠を突きつけられる事を恐れて、私を避けていたんだ。裏切られていたかもしれない、そう考えることすら耐えられなかった……たぶん、あの人はあの人なりに母を愛していたんだ」 「そんな……そんなことで篠宮さんを避けるなんて、親として勝手すぎますよ。夫婦の間の事情なんて、解ってあげる必要ありません。どんな子どもだって、愛されて、大事にされる権利があるはずなのに……なんで篠宮さんが、そんな目に遭わなきゃいけなかったんですか」  悔しげに、結城は篠宮のシャツの袖を掴んだ。その眼に涙が浮かんでいる。 「馬鹿。なんで君が泣くんだ」 「だって……ひどすぎるじゃないですか。篠宮さんは、何も悪くないのに」  シャツを掴んだまま、結城が胸許に顔をうずめる。小さな子どもをあやすように、篠宮はその頭を撫でた。 「だから私は、愛だの恋だのに興味が持てないんだ。恋愛なんて、くだらない。愛しあって結ばれたはずなのに、ちょっとしたボタンの掛け違えが原因で、修復不可能なまでに関係が壊れてしまう。世間の夫婦を見ていれば解るだろう。毎日毎日、数えきれないほどの恋人たちが永遠の愛を誓って結婚しているのに、一年かそこらで心が離れて……後は離婚するか、我慢して惰性で生活していくかだ。私は、そのどちらも選びたくない」  結城の柔らかな髪に触れながら、篠宮は静かに息をついた。長い間ずっと抱えてきた胸の痛みが、彼に話すことで少し楽になったような気がした。 「どうして今、自分の家の事など話したのか……私も酔っているのかもしれないな。済まない。こんな話、つまらないだろう」 「そんなことありません……篠宮さんの話なら、もっと聞きたい。あなたを初めて見たとき、思ったんです。この人はきっと、俺にとって特別な人なんだって。あなたの事をもっと知りたいって、そう思ったんです」  身体を起こし、結城は篠宮の眼を見つめた。 「さっきはあんなふうに言ったけど、やっぱり、篠宮さんのご両親には感謝しないといけないですね。だって、あなたをこの世に送り出してくれたんですから。あなたがこの世に居なかったら、俺があなたに出逢うこともなかったんです」  結城にそう言われ、篠宮はその当たり前の事実に初めて気がついた。もし生まれてこなかったら、自分と彼が出逢うことは決してあり得なかったのだ。 「俺、篠宮さんが愛を信じられるようにしてあげたい。あなたを幸せにしたいんです。俺があなたを愛します。俺じゃ、ご両親の代わりになれないのは解ってるけど……それを埋めて有り余るくらい、たくさん、たくさん愛してあげるから」  顔を寄せ、結城が優しく頰にキスをする。その肩に寄りかかるようにして、篠宮は結城に上半身を預けた。自分から腕を伸ばし、彼の背にそっと触れる。

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