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自覚がなさすぎる

 その日の午後。外回りに出かけた篠宮と結城は、駅のホームのベンチに並んで座っていた。  いつも愛想の良い結城が、今日は眉間にしわを寄せている。こんなに不機嫌な表情の彼は見たことがない。不機嫌な顔もできるのかと、感動さえ覚えたほどだ。 「……いつまでそんな顔してるんだ」 「だって……」 「何度も言ってるじゃないか。エリックは私が大学にいた時に、アメリカから来た交換留学生として顔を合わせただけだ。言葉を交わしたことはあるが、別に親しかったわけじゃない。友人ともいえないくらいの、本当にただの知り合いだぞ」 「俺より先に知り合ってるなんて許せません! しかもっ! ま、まっ『マサユミ』とか……俺でさえそんなふうに呼んだことないのに!」  悔しくて仕方ないといった顔で、結城はくちびるを噛み締めた。感情が昂ぶったのか、手のひらでばんばんとベンチを叩き始める。 「篠宮さん。俺も『正弓』って呼んでいいですか」 「いいわけないだろう!」 「なんであいつは良くて俺は駄目なんですか? あいつとは、ファーストネームで呼び合うくらい親しかったんですか?」 「いや、それは……彼はアメリカ人だから、感覚が違うというか……別に深い意味はない。本当に、ただの知り合いとしか言いようがないんだ」  結城に問い詰められ、篠宮は返事に窮した。 「ただの知り合いなら、俺だってこんなこと言いませんよ。でも、あいつ絶対篠宮さんに気があるから! 俺には判る!」 「自分と一緒にするな。君が異常なんだ」  言い合っている間に、ホームに電車が到着する。無理やり話を終わらせて、篠宮は立ち上がった。  振り向いて結城がついてきていることを確認し、大きな溜め息をつく。どうも『新しい人が入ってくる』と聞くと、嫌な予感しかしない。  ◇◇◇  翌日。篠宮は社内で昼食を取ろうとして、いつものように休憩所へ向かった。  追いかけてきた結城が、すぐ隣に並ぶ。篠宮は不思議に思って尋ねた。 「今日は社食じゃないのか」 「俺、今日から篠宮さんの隣で食べます。篠宮さん見張ってないと、変な虫が付きそうだもん」  いきなりの『今日から隣』発言に、篠宮はまたかという思いで溜め息をついた。 「エリック……いや、ガードナー部長補佐のことを言ってるのか? 君も心配性だな。単に、学生時代の知り合いに挨拶しただけじゃないか 。彼だって、あれだけの期待をかけられているんだから、きっと早々に大きな仕事を任されて忙しいはずだ。私なんかに関わっている時間はないと思うぞ」 「篠宮さんは自分がどんだけ魅力的か、自覚がなさすぎるんですよ。とにかく。ストーカーと言われようがなんだろうが、ぴったり張り付いてますからね」 「……好きにしろ」  篠宮は諦めて承諾した。付いてくるなと言っても、素直に従うような奴ではない。  まあしばらく経てば、結城も自分の心配が杞憂だったことが解るだろう。なんといっても経営戦略部は五階、営業部は二階にあるのだ。営業部の人間はたいてい階段を使っているが、経営戦略部は、よっぽど酔狂な者でもないかぎりエレベーターで移動するに決まっている。部長クラスならいざ知らず、篠宮のような末端の社員にとっては直接の接点もない。  廊下でエリックと顔を合わせることくらいはあるかもしれないが、親しく話をするような仲でもない。 きのう声をかけてきたのは、朝礼で並んでいた中にたまたま知った顔を見つけて、挨拶をしようと思っただけなのだろう。それしか考えられない。  このまま放っておけば、来週くらいには結城の嫉妬も落ち着くに違いない。平穏平和を願う篠宮のその思いは、次の一言で打ち砕かれた。 「……マサユミ。ここに居たんだね」  少し離れた場所から、不意に声をかけられる。  誰の声なのか、いちいち見て確認するまでもない。この社内で、篠宮のことを『マサユミ』などと呼ぶのは、たぶんただ一人だ。 「企画部のレディたちに聞いたんだ。君は、社内で昼食を取るときはたいていここに居るって」  エリックが、どこに座ろうかと席を探し始めた。ただ挨拶に来ただけではなく、ここへ腰を据えるつもりらしい。  篠宮の隣の席は結城が占領している。反対側は窓だ。  少し迷ってから、エリックは篠宮の向かいに腰かけた。 「今日も良い天気だ。日本の冬は、雨が少ないんだね」  エリックが笑顔で話しかけてくる。隣を見ると、結城は無愛想な顔で口をつぐんだまま、殺気立った空気を全身から放っていた。自己紹介などする気は微塵もないらしい。  仕方なく、篠宮は自分のほうから結城を紹介することにした。結城の気持ちは解らなくもないが、そんなことを理由に態度を変えるなんて、公私混同も甚だしい。後で説教しておくべきだろう。 「彼は私の部下で……」 「待って、マサユミ。ちょっと、英語で話してみてくれないかな」 「I'm on it.」  求めに応じて、篠宮は自分が結城の教育係を務めていることを説明した。結城がアメリカの大学を卒業し、十月からこの会社に来たということも簡単に述べる。  エリックは黙ってその話を聞いていた。相槌ひとつ打とうとしない彼の様子を見て、篠宮は途中で言葉を切った。 「あの……なにか気になる点がありましたか」 「いや。相変わらず、とてもいい発音だと思うよ。素敵だ。綺麗だよ」  エリックが眼を細めて薄く笑う。発音を褒めるというより、女性を口説いている時のような口調だ。隣にいる結城の機嫌が、眼に見えて悪くなった。 「マサユミ。君はもしかして、国内よりも海外の顧客を中心に担当しているのかな?」 「半々くらいですが……他の営業の者よりは多めですね」 「そうだと思ったよ。そのセクシーな発音で商談を進められたら、誰でも契約書にサインしたくなるだろうね」  そう言って、エリックはエメラルドの瞳で篠宮を見つめた。 「ロスでの、あの君のスピーチ。ぼくも聞かせてもらったよ。あんなに心を揺さぶられるスピーチは初めてだった。レジェンド……君のとこの営業部長が、そう言っていたよ。経済学の講義で、君と隣の席になった時のことを憶えてる? あの時と変わらない、低くて美しい声を聞いて感動したよ……背は、少し伸びたんだね」 「あの。ミスター・ガードナー」  ついに我慢しきれなくなったのか、結城は音を立てて椅子から立ち上がった。

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