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華やかな世界
「やれやれ。忙しいね、彼。じゃあねマサユミ。またこんど誘うから」
おどけたように肩をすくめ、エリックはエントランスの向こうに消えていった。しつこく誘われるかと思っていたが、意外と諦めがいい。
やはりただの冗談だったのだろう。そう篠宮は考えた。自分のような、大して取り柄もないつまらない男に言い寄ってくる物好きは結城くらいのものだ。そんな特殊な性癖の持ち主が、そうそう何人もいるとは思えない。
エリックの姿が見えなくなると、彼は自分の携帯電話を取り出した。ここでただ突っ立っていてもしょうがない。今のうちにメールの整理をしておこう。
手袋を外してメールボックスを開き、編集の画面に移動する。不要な物にチェックを付け始めた時、入り口のガラスの扉が開いた。外の風が吹き込み、前髪を揺らす。
篠宮は顔を上げた。見ると、先ほど帰ったはずのエリックがまた戻ってきている。
「お忘れ物ですか?」
「いや……ここで待っていれば、君と二人で食事に行けるかと思ってね」
唐突にそう言われて、篠宮は怪訝な顔をした。すでに先約があることは、エリックも重々わかっているはずだ。
「ですが、私は結城と約束を……」
篠宮が返事をしかける。次の瞬間、ばたばたと音を立てて結城が走ってきた。
「済みません篠宮さん! ちょっと急用ができちゃって……今日の食事の話は、また後日ってことにしてもいいですか?」
土下座しかねない勢いで、結城は篠宮に向かって両手を合わせた。
「本当にごめんなさい! この埋め合わせは必ずするから!」
結城が深々と頭を下げる。そのそばに佇むエリックを、篠宮は横目で眺めた。
ここで待っていれば、君と二人で食事に行けるかと思って。先ほど彼がそう言っていた訳が、ようやく理解できた。
おそらくエリックは、結城が電話しているところを近くで見ていたのだ。結城に急用ができて、食事の予定が中止になるということを、会話の流れから察したのだろう。
立ち聞きとはいただけない趣味だが、聞こえてしまったものは仕方がない。結城の声はよく通るから、なにも隣で耳を澄ませていなくても、内容は充分に聞き取れたはずだ。
「……用事なら仕方ないだろう。たかが食事の約束だ。そんなに頭を下げて謝るようなことでもない」
「篠宮さん、俺の部屋で待っててください。十二時前には帰れると思います」
わざとエリックに聞こえるように、結城はそう口にした。自分たち二人がただならぬ仲だということを、暗に示しているのだろう。合鍵まで持っているなんて、深く信頼しあった恋人同士でなければ有り得ないことだ。
言い終わると、結城は思いきりエリックを睨みつけた。篠宮は溜め息をついた。どう見ても、平社員が部長補佐に対して取る態度ではない。
「おい。俺がいないからって、篠宮さん誘ったりするなよ!」
「さあ。どうだろうね」
エリックが肩をそびやかして挑発する。犬猿の仲とはこういうのを指すのだと、篠宮は頭を抱えたい気分になった。
「……なんだこの組み合わせ。美男子コンテストでも始まるんですか?」
不意に斜め上からそんな声が聞こえ、篠宮たちは顔をそちらへ向けた。
篠宮たちと同じ営業部の人間が三人、連れ立って階段を降りてくる。営業部の多田部長と、篠宮の後輩である山口、佐々木の三人だ。コンテスト云々の声を発したのは、たぶん佐々木だろう。
「ああ、ミスター・タダ。先日はいろいろ教えていただきありがとうございました」
エリックは多田部長に声をかけた。
「この会社に来て驚きました。ミスター・シノミヤとは、学生時代に顔を合わせたことがありましてね。偶然会えたことが嬉しくて、旧交を温めていたところなんです」
「そうですか、それは本当に偶然ですね。篠宮くんはうちの稼ぎ頭だから、現場について不明なことがあったら、ぜひ彼に聞いてください」
愛想よく笑ってから、部長は篠宮のほうを見た。
「篠宮くん、ちょうどいいところで会ったよ。これからみんなで飲みに行かないか? まあ……予定があるなら別だが」
部長が探るような眼を向けてきた。後ろの二人も、興味津々といった表情で篠宮の顔を見ている。
真面目すぎる性格のせいか、仕事が恋人と入社当時から陰口をたたかれていることを篠宮は知っていた。実際、過去のクリスマスも、たいてい英会話の勉強かビジネス書を読みながら一日を終えるのが常だった。結城から食事の誘いを受けた時、即答で承諾したのも、他に予定などないことが分かりきっていたからだ。
クリスマスに誰かと食事の約束をしたのは初めてだった。それを考えると、中止になってしまったことが少し……いや、かなり残念ではある。自分が思いのほか落胆していることに驚きながら、篠宮はその気持ちを心の隅に追いやった。
恋人、デート、プレゼント……そんな華やかな世界は、自分には関係のないことだと今までは思っていた。敬虔な修道僧のごとく、そのような浮わついた話とは縁を切って暮らしてきたのだ。
「予定は……特にありません」
篠宮はきっぱりと言い切った。ここで恋人がいると少しでも匂わせようものなら、月曜には営業部中に話が広まってしまうに違いない。企画部の女性たちにとっては、格好の噂話の種だ。
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