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蛇の囁き

「サシミと唐揚げは本当に美味しかったけど、酒はひどかったなあ。あんなに薄くて炭酸の抜けたハイボール、初めて飲んだよ」 「ああいった店の酒は、たいていあんな感じですよ」  居酒屋のカクテルは当たり外れが大きいものだ。いくら付き合いとはいえ、不味い酒を注文したくはない。居酒屋に行った際に頼むのは、ビールかワインかウィスキーのロック……そう篠宮は決めていた。 「酒だけを落ち着いて楽しみたいなら、よそへ行けってことだね。ミスター・タダの言うとおり、居酒屋もメニューが豊富で楽しかったけど……今は、どこか静かな所で飲み直したい気分だ」  急に歩調を緩め、エリックが篠宮の顔を見た。篠宮は心の底で身構えた。この後なにを言われるのか、だいたい想像はつく。 「……六本木にいいバーがあるんだ。一緒に行かない?」  来た、と篠宮は思った。居酒屋ではエリックもそこそこ飲んでいたし、このまま帰らせてもらえるものと考えていたが、世の中そう甘くはないらしい。  歩みを止めて、篠宮はエリックの眼を見据えた。ここはきっぱり断るべきだろう。 「結城が言っていました。あなたが、私に気があるんじゃないかと……」 「ああ。もちろんあるよ。君は魅力的だからね。あわよくば、とは思っているけど」  エリックがくちびるの端を上げた。図星をさされても、決して慌てない。ビジネスの基本だ。 「そういうことでしたら、せっかくですが遠慮させてください。その気がないのに、気を持たせるようなことをするのは失礼にあたると思いますので」  言葉だけは丁寧に、篠宮は拒絶の意思を示した。エリックはそれだけでは引き下がらなかった。さらに深く笑みを刻んで、こう篠宮に問いかける。 「どうしてユウキが君との約束をキャンセルしたのか、知りたくない?」  結城の名を聞いたとたん、篠宮の心に動揺が走った。キャンセル。約束。どうして。様々な単語が頭の中を飛び交った。 「それは……彼は、急用で」 「君との約束をキャンセルするほどの急用って、何?」  エリックは柔らかな声音でそう言った。  蛇の囁き。直感的にそう感じた。甘い声で誘惑する、罪深い蛇の囁きだ。 「一緒に行ってくれたら……教えてあげるよ。なんといってもぼくは、動かぬ証拠を持ってるからね」  動かぬ証拠。後ろめたさを匂わせるその言葉が、胸を揺さぶった。  篠宮はくちびるを噛みしめた。結城が自分を置いていった理由……そんなことを知ってどうするのだ。知りたくない。  どうしても気になるなら、後で結城に直接聞けばいいだけの話だ。きっといつものように笑って教えてくれるだろう。  だが……もし。本当に隠さなければいけないことだったら? 『動かぬ証拠』という言葉が胸の奥に引っかかる。真実を求める気持ちと、そこから眼を背けたいというふたつの思いが胸の中でせめぎあった。 「……分かりました。行きます」  いつのまにか、くちびるが勝手に言葉を紡ぎ出していた。 「タクシー使おうか」  獲物を網に絡めとったことに満足したのか、エリックはそう言って静かに微笑んだ。  エリックが案内した場所は都内でも指折りの、高級ホテルのバーだった。  篠宮はひとまず安心した。場末の怪しげなバーならともかく、このように品格のある場所で、まさかおかしなことにもなるまい。 「ここのバーは、雰囲気が良くて気に入ってるんだ。好きなもの頼んでいいよ。ぼくが奢るから」 「勘定は折半させてください。理由もなくお金を出していただくわけにはいきません」  篠宮は固い表情でそう告げた。さっきまで部長たちと居酒屋にいたのが、まるで別世界のことのように思える。 「解った。無理にとは言わないよ」  軽く肩をすくめて、エリックはカウンターの奥に並んだ酒瓶へ眼を向けた。 「ぼくはジンライムにしようかな。君は?」 「では、スプモーニを」  注文した物が揃うと、エリックは瞳の底に好奇心をたたえながら篠宮に問いかけた。 「改めて聞くけど。君とユウキって、本当に恋人同士なの?」  篠宮は黙っていた。そんなプライベートなことに答える義務はない。  何より今の二人の関係がどういうものなのか、篠宮自身にも判らなかった。たしかに、恋人になるという約束は交わした。だが『本当に』恋人同士なのかと聞かれると、はっきりした答えは出ない。結城はともかく、自分のほうは、彼に恋などしていないのだから。 「ユウキはああ言っていたけどね。恋人にしては、ちょっとよそよそしいなと思って。おおかたユウキが強引にアプローチして、君がそれに流されて付き合ってる……そんなところかな」  何もかも見透かしたような表情でエリックが微笑む。背すじに寒気が走って、篠宮は一瞬身を震わせた。 「……ギムレットをお願いします」  声が掠れそうになるのを誤魔化しながら、篠宮は次の酒を注文した。届いたグラスをわざと邪魔な場所に置き直し、二人の間に距離を取る。  穏やかで知的で上品。それが、エリックを初めて見た人が抱く感想だろう。物腰は柔らかく、声も落ち着いて優しい響きだ。結城のような溌剌とした若々しさはないが、二十代も終わりに近づき、充実して年齢を重ねてきた男の余裕がある。

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