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自分には関係ない

「ユウキのテクニックがどの程度なのかは判らないけどね。そっち方面に関してなら、ぼくも少しは自信あるよ。一度くらい試してみるのも、悪くないんじゃないかな?」  身体中が怖気(おぞけ)立つような気がして、篠宮はすくみ上がった。スイートルームになど、なんの魅力も感じない。 「さっきの映像を見たら、彼に弁解の余地なんてないことは解るだろう。ユウキは君との約束より、この女性と逢うことを優先しているんだ。そんな奴に義理立てする必要はないと思うけど?」 「いえ……そういうわけにはいきません。彼の口から直接、理由を聞くまでは……」 「貞淑なんだねえ。そういう所にもそそられるよ」  どう口説いても篠宮の気持ちがなびかないと解ると、エリックは眼を細めて笑った。 「オッケー、今日はこのくらいにしておくよ。しつこくして嫌われたくないからね。スイートルームにはぼく一人で泊まるよ」  腹が立つほどに優雅な仕草で、エリックが椅子から立ち上がる。言葉にできない重苦しい気持ちを抱えながら、篠宮は勘定を済ませてバーを後にした。  胸に風穴が開いたような思いを引きずったまま、どうにか自分の家へ帰り着く。  ソファに腰かけると、耐えきれないほどの疲労感が重くのしかかった。エリックに見せられた映像が、まぶたの裏に何度も甦る。  なぜ自分は、これほどまでに動揺しているのか。結城はただの部下なのだ。恋人になるという約束はしたが、たがいに絶対の貞節を誓うとは言っていない。彼が誰と逢おうが、自分には関係ないはずではないか。  そういくら自分に言い聞かせても、胸のつかえは取れなかった。堂々めぐりする心を持て余し、篠宮は大きな溜め息をついた。  ……とにかく、今日はもう寝てしまおう。そう思って強いて腰を上げた瞬間、テーブルの上の携帯電話が鳴った。  この時間に電話をしてくるのは一人しかいない。そう思いながらも、画面を見て着信相手を確認する。結城の名前がそこにあった。  こんなはっきりしない気持ちを抱えたまま、彼と話したくはない。後ろ向きになる心をあえて叱咤し、篠宮はのろのろと電話に手を伸ばした。なかば条件反射のように右手の親指を動かし、ボタンをスライドさせて通話状態にする。 『あ、篠宮さん。今どこに居るんですか?』  その声を聞いたとたん、ほっとして涙が出そうになった。彼に逢いたい。初めて、心からそう思った。 「……家に帰っている」  胸の内を悟られないよう、篠宮は努めて静かな声で事実だけを伝えた。 『鍵、使ってくれて良かったんですよ。てっきりうちで待っててくれると思ってたのに。篠宮さんと飲もうと思って、シャンパン買ってきちゃいました』  結城の声はいつもと変わらない。熱いものが喉元まで込み上げてきて、篠宮はぐっとくちびるを噛んだ。 「済まない。ちょっと……体調が優れなくて」 『え、大丈夫ですか? 熱は?』 「熱はないようだ」 『俺、看病に行きましょうか?』 「そんな大したことじゃない。少し横になれば治ると思う」  来てほしい。今すぐに逢いたい。胸に浮かぶその想いを、篠宮は息を詰めて抑えこんだ。 『そっかあ……早く治るといいですね。逢いたくてたまらないけど、そういうことなら我慢します。大事にしてくださいね。なにか足りない物とか欲しい物があったら、すぐ連絡ください。飛んでいきますから』 「分かった。何かあれば電話する」 『じゃあ……おやすみなさい、篠宮さん。愛してます』  名残惜しそうにそう呟いて、結城は電話を切った。愛しているという言葉の響きが、篠宮の胸の中に何度もこだました。  どこまで信じていいのだろう。愛の言葉などなんの保証もない、浮き草のように頼りないものだ。あの映像を見てしまった今では、嫌でもそのことに気づかざるを得ない。  普段と変わらずに、彼は自分を気遣ってくれているように思える。だが、今夜……一度した約束を取り消すことまでして、彼は若い女性と逢っていたのだ。  あの映像の後、二人がどうなったのか。それは判らない。しかしながら、彼らが抱き合ってキスをする姿は容易に想像がついた。少なくとも結城にとっては、自分と背丈の変わらない、こんな男を抱いているよりもよほど自然なことだ。 「結城……」  外したネクタイをソファの上へ放り投げ、篠宮は溢れそうな涙を胸の奥へしまいこんだ。痛みは執拗に胸の奥にわだかまり、容易には消えてくれそうになかった。  月曜になっても、篠宮の心は晴れなかった。あの動画に映っていた女性は誰なのか。その疑問だけがずっと心の中で渦を巻いている。  おそらく、結城の元彼女というのが一番あり得る線だろう。彼なら女性のほうからいくらでも寄ってくるだろうし、過去にいた彼女の数が二桁三桁と言われても驚かない。  だが。元……なのだろうか。そう考えただけでも胸が焼けつくようで、篠宮は手のひらに傷がつくほどこぶしを握り締めた。あの親しげな様子。もしかしたら、現在進行形では? 「ちょっと篠宮さん!」  驚いたような結城の声で、篠宮は我に返った。

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