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抜けない棘

「これじゃ白紙のデータで上書きしちゃいますよ! あー、危なかった」  強引に手を重ね、結城は篠宮の指をマウスから外させた。  篠宮は眼の前のパソコンを見た。たしかに結城の言うとおりだ。自身が一時間近くかけて作ったデータの上に、何も記入のない白紙を重ねようとしている。普段なら有り得ないミスだ。 「どうしたんですか? 篠宮さんらしくないですよ。やっぱり、まだ体調悪いんですか?」 「いや……そういうわけでは」  篠宮は言葉を濁した。悪いのは、体調ではない。もっと別の、捉えどころのない何かだ。 「とにかく助かった。ありがとう」 「えっ……」  篠宮が感謝の意を述べると、結城はぎょっとした顔で一歩あとずさった。 「俺、篠宮さんに『ありがとう』って言われたの、初めてかも……」  結城に言われて、篠宮は自分の言動を振り返った。たしかに……彼に向かって、その言葉を使うことはなかったような気がする。  篠宮は自己嫌悪に陥った。三か月近くも一緒に仕事をして、手料理までご馳走になっていながら、自分はありがとうのひとつも言ったことがないのか。これでは、彼が他の恋人と逢いたくなるのも無理はない。 「もー。なんか変ですよ、篠宮さん。いつもみたいに、馬鹿って言ってください」  篠宮の胸の内も知らず、結城は明るい声で笑った。 「ねえ篠宮さん。水曜日、仕事納めですよね。仕事が終わったら食事に行きませんか? 例のフレンチの店、もういちど予約したんです。今度という今度は、死んでもキャンセルなんてしませんから」 「分かった……予定は空けておく」  内心は上の空のまま、篠宮はくちびるだけを動かして返事をした。  結城が予約したレストランは、格式ばったところがなく、それでいて高級感を味わえる場所だった。  天井からは小さなシャンデリアがいくつか下がり、真っ白なテーブルクロスの上には薔薇の花が飾ってある。ドレスコードはやや緩やかで、ニット地のワンピースを着た女性や、スーツ姿ではあるもののノーネクタイの男性が、気軽に食事を楽しんでいる姿が見られた。  とりあえずメインディッシュとデザートだけを選び、後は結城に任せることにする。メニューに軽く眼を走らせ、結城は物慣れた様子でアペリティフを頼み始めた。以前にも何度か来たことがあるようだ。  誰と来たのだろうか。それを考えると、心の奥がちくちくと痛んだ。 「この前は本当に済みませんでした。先週ならクリスマスツリーも飾ってあって、もっと綺麗だったはずなのに」 「いや、いいんだ。急用が入ることくらい、誰にでもある」  篠宮は乾いた声で答えた。本当は、笑って受け流すことなどできない。あの女性は誰なのか。その疑問がずっと、抜けない棘のように胸の内を(さいな)んでいる。 「あの時……ずいぶん急いでいたようだが」 「そうなんですよ。向こうからいきなりメール送ってきて。道が分からないからなんとかしてくれって言うんですよ。交番にでも聞けっての。まったく、こっちの迷惑も考えてくれって話ですよねー。いいかげんスマホの使いかた覚えりゃいいのに、ほんと機械音痴なんだから」  結城の口調は普段と変わらず、特に後ろめたいことがあるような様子はない。眼を伏せて表情を読まれないようにしながら、篠宮は慎重に探りを入れた。 「……友達か?」 「ああ……まあ、昔からの知り合いっていうか……ちょっと、断れなくて」  話がその部分になると、結城は急に言葉を濁した。  なぜはっきり答えてくれないのだろう。ただの友人なら、そんなふうに曖昧な言いかたをする必要はない。疑惑が短剣のように鋭く胸を突き刺し、その痛みは耐えがたいほどになった。 「ね、美味(おい)しかったでしょ? また篠宮さんと来たいな。フランス料理のああいう雰囲気、篠宮さんすごく似合います」  食事が終わって店を出ると、結城は満足そうに微笑(ほほえ)んだ。 「ああ……ご馳走になったな。次は私に払わせてくれ」  心ここに在らずといった状態で、篠宮はうわべだけの礼を述べた。不味(まず)くはなかったような記憶はうっすらとあるものの、何を食べたのかすらよく覚えていない。  結城が待ち合わせをしていたあの女性は、果たして誰なのか。彼の口からは聞けそうもない。それを思うと心が千々に乱れ、体裁を取り繕うだけで精一杯だった。 「この後はうちに来てくれるでしょ? 先週買ったシャンパン、そのまま残ってるんです。一緒に飲みましょう」  食事の際に飲んだワインが回っているのか、少し上気した顔で、結城は篠宮の袖をそっと引いた。  思わず、篠宮はその手を振り払ってしまいそうになった。眼の前にあの映像がちらついて、結城の申し出を素直に受けることができない。なぜこんな気持ちになるのか、彼自身にも解らなかった。 「その。今日は……帰らせてもらえないか。ちょっと……疲れていて」  見え透いた言い訳を口にしながら、篠宮は故意に視線をそらした。自分の頭の回らなさに嫌気がさす。もうちょっとましな嘘がつけないものか。結城が納得するような、もっともらしい理由を述べられたら、難なくこの場から逃れることができるのに。

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