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淡雪のように

「私は……てっきり、君が以前に付き合っていた女性なのかと」 「そんな訳ないでしょう。世界一素敵で可愛い恋人がいるのに、元カノと会うとか意味わかんないです。篠宮さん、そんな事で今までぐるぐるしてたんですか? もしかして嫉妬してくれたの?」 「そういうわけじゃない」  声高に否定しながら、篠宮は赤面した。真相が明らかになってみると、自分の勘違いがこの上なく恥ずかしい。 「嫉妬なんてしていない。ただ、あれだけ好きだと言っていたのに……恋なんてそんなものかと思っただけだ」 「俺が篠宮さん以外の人なんか好きになるわけないでしょ? 俺が好きなのは篠宮さんだけなんです。それだけは、この先もずっと変わりません」  ひざまずいたまま腕を伸ばし、結城は両手で篠宮の指先を包み込んだ。冷えきった手の先が、結城の体温で少しずつ温かくなっていく。 「でも……誤解されるようなことをしたのは、謝ります。済みませんでした」  それだけ言い終わると、結城は服従するように手の甲に口接けた。自分の非を素直に認められるところは、彼の美点のひとつかもしれない。 「結城。実は……私からも、謝らなければいけないことがある」  安堵の思いが胸に満ちるのを感じながら、篠宮は口を開いた。キャンセルの理由が明らかになった今、結城に対して隠し事をしたくはない。というよりも、自分は元々、隠し事などできない性分なのだ。 「エリックと二人で、六本木のバーに行った」 「えっ……?」 「君に言えないような事はしていない。少し話して……その後、動画を見せられた。君が妹さんと会っていた場面だ」 「動画なんて……いつの間に」  結城が眼を見開いた。そんな証拠を握られていたなんて、考えもしなかったのだろう。当然といえば当然だ。 「興信所にいる知り合いに頼んだと言っていたが……」 「でも。先回りして待ってないと、動画を撮るなんて無理ですよね」 「私もそれは考えたんだ。君が電話で話していた時、エリックは近くでそれを聞いていたらしい。会話の中で、君は待ち合わせの場所を口にしなかったか?」 「……言ったかもしれません。池袋の西口って」 「話している途中で、電話の相手が女性だと判ることを言っただろう?」 「えっと……言いました。変な男にナンパされても、相手にするなよって」 「場所さえ分かれば、後は簡単だ。君は目立つから、来ればすぐに判る」  篠宮はあの日のエリックのことを思い出した。電話の内容を聞き取り、人を手配し、部長たちとの飲み会に何食わぬ顔で参加する。その緻密な計算と行動力には、怒りを通り越して感動を覚える。 「あいつ……そこまでして、篠宮さんの気を引こうとするなんて」 「私に興味があるというよりも、君と私の間に波風を立てて、どうなるか見てみたかったんだと思う。君の態度があまりに反抗的だから、からかいたくなったんだろう。たしかに隠し撮りなんて褒められた行為じゃないが、君がした事よりはましだと思うぞ」 「う……それを言われると、ちょっと弱いなぁ……」  結城は肩をすくめて縮こまった。好きな相手に薬を持って、裸でベッドに縛りつける奴に文句を言われる筋合いはない。二人が付き合い始めた経緯をエリックが知ったら、そう言うに違いない。 「動画見せた後……あいつ、どう言って篠宮さんを口説いたんですか」 「率直に言うと……部屋に誘われた。ホテルのスイートに」 「えっ?」 「もちろん断った。私は君以外と、その……そういうことをする気はない」  はっきりと行為のことを口にするのが憚られて、篠宮は曖昧に言葉を濁した。 「あいつとは……ほんとに、何もなかったんですね」 「あるわけがない。だから君も、つまらない焼きもちなど焼かないで、エリックとは仕事仲間として普通に接してくれ。今回の件で思ったんだ。冷静な判断力、駆け引きの仕方、根回しの周到さ……彼には才能がある。経営戦略部の主力メンバーとして、きっと会社の役に立ってくれるはずだ」 「……焼きもち焼かれたくないんだったら、俺の前で他の奴を褒めないでください」  子どもじみた口調でそう言うと、結城は顔を上げて篠宮の眼を見つめた。 「分かりました。俺、あなたを信じます。あいつとも……友達にはなれそうもないけど、篠宮さんがそう言うなら、なんとか我慢してみます」  心を整理するように、彼は大きく深呼吸をした。 「だから、篠宮さんも俺を信じて。俺、篠宮さんを裏切るくらいなら死んだほうがましです。きっと記憶喪失になっても、あなたを見たら、あなたを愛してたことを思い出します。だから……信じて」 「……解った」  篠宮は深々とうなずいた。あのイヴの夜からずっと自分を苦しめてきた悩みの種が、淡雪のように溶け、はるか彼方へ押し流されていくのを感じた。 「じゃ、この話はおしまい! いいですね」  真面目な表情を解き、結城はようやくいつもどおりの笑顔を見せた。 「せっかく来たんだから、楽しみません?」  彼らしく早々に気持ちを切り替え、結城は立ち上がって部屋の中を見回した。

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