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いつか本当に
「……分かりました。じゃあ、篠宮さんも行きましょう」
「私が行ってどうするんだ」
「俺の恋人だって、家族みんなに紹介します」
彼の答えを聞いて、篠宮は仰天した。
冗談ではない。大企業の社長の息子に見染められ……そう聞くぶんには、幸せなシンデレラストーリーのように思えるが、それが男の自分に降りかかってくるとなれば話は別だ。
「私の身にもなってくれ。この年末年始の休みに、そんな用件で社長とお会いしたくない」
篠宮は固く辞退した。
「え、駄目ですか? 俺がいきなり男の恋人連れてっても、篠宮さんのこと見たらみんな納得すると思うけど。篠宮さん、そのくらい綺麗で可愛いもん」
結城が確信に満ちた口調で言い切る。これで視力が良いだなんて、何かの間違いではないか。篠宮は疑り深く結城の瞳を見据えた。
「とにかく行ってこい。泊まると言っても、たかが一日か二日じゃないか。休みは四日まであるんだ。どうしても二人で過ごしたいというのなら、帰ってきてからだってその時間はある」
「でも……新しい年は、篠宮さんと一緒に迎えたかったのに」
今にも泣きだしそうな顔で、結城が眉を寄せる。強いて落ち着いた声を出し、篠宮は静かに諭した。
「家族は大事にしてくれ。なぜ私がそう言うのか、解るだろう」
「そっ、それは……」
極めつけの一言を聞いて、結城は少しのあいだ黙りこんだ。こぶしをぎゅっと握り締め、物問いたげに再びくちびるを開く。
「……ね、篠宮さん」
「なんだ?」
「俺のこと好き?」
結城が期待に満ちた眼差しを向けてくる。
自分は、彼のことが好きなのか。篠宮は自問自答した。結城と過ごす時間はたしかに心地よい。だがその感情は、果たして恋と呼ばれるべきものなのか。それはいくら考えても分からなかった。
「……嫌いではない」
眼をそらし、篠宮はぶっきらぼうに言い放った。その答えを予期していたかのように、結城は鷹揚な笑みを見せた。
「いつか、篠宮さんが俺の気持ちを受け入れてくれたら……その時は俺、篠宮さんを家族に紹介します。これが俺の好きになった人だって……どんな困難があっても、一生涯愛し抜くと誓った人だって。いいですか」
「……その時が本当に来たらな」
篠宮は曖昧に返事をした。結城の想いなら、身体ではとうの昔に受け入れている。だが彼が求めているのは、きっとそれ以上のことだろう。
この自分に、誰かを愛する日が来るのだろうか。相手のためならすべてを失ってもいいと感じるほどに激しく、身も世もなく、誰かを恋うる日が。それは信じがたいことに思われた。
「必ず来ます。来させてみせる」
胸に手を当て、結城は自分に言い聞かせるように呟いた。
「家族は大事に、か……篠宮さんがそう言うなら、仕方ありませんね。今夜は親父のとこに泊まってきます」
言い終わると、結城は休む間もなくクローゼットを開けて服を身につけ始めた。
「今から行くのか」
「うん。すぐ行かないと、決心が鈍りそうだから」
結城が微かに眉を寄せて笑った。
行かないでほしい。ふとそんな風に感じて、篠宮は彼に気づかれないよう、その思いを心にしまいこんだ。家族の元へ帰るようにと提案したのは自分のほうなのに、本当に彼が行ってしまうとなると、妙に寂しく心細い気がする。
ただの我がままだ。あっさりとそう結論づけ、篠宮は再び口を開いた。
「……そうか。では、私も今日は自分の家に戻ろうと思う」
「解りました。俺はもう出かけるけど、篠宮さんはもうちょっとゆっくりしててください。エアコンはさっき止めたし、鍵だけ掛けといてくれれば大丈夫です。初詣が終わって、戻れるようになったら電話しますから」
慌ただしくコートを着込みながら、結城が振り返って篠宮の顔を見る。自分が裸だったことに気づき、篠宮は布団を引き寄せて胸から下を隠した。
「篠宮さん。愛してます。いつか本当に、俺の家族になってくださいね」
篠宮の手を取り、結城が静かに囁きかける。その声音は胸を打つほど真摯で、優しい響きに満ちていた。
翌日の、一月一日の朝。篠宮は会社がある時と変わらず、六時に起床して元旦を迎えた。
今日も良い天気だ。初詣にはもってこいの日和だろう。
顔を洗い髪をとき、服を着込む。いつもと変わらない朝の身支度を済ませ、篠宮は台所へ向かった。
食欲がなかったため、朝食は摂らずにコーヒーだけで済ませる。それが終わると、篠宮は机に向かって英会話の復習を始めた。別に勉強熱心なわけではない。他にする事がないだけだ。
耳触りの良い女性の声が話す英語を聞きながら、要所を手書きでノートに書き留めていく。アナログではあるが、篠宮にとっては、結局のところこれがいちばん効率的な勉強方法だった。
新しい言い回しをふたつ覚えたところで、篠宮はテキストを閉じた。時計を見ると、一時間も経っていない。集中していたせいで早く終わってしまった。
溜め息をつき、篠宮は周りを見渡した。結城の家に較べると、ひどく殺風景だ。彼の部屋には海をモチーフにしたものが多く飾られていて、ただ眺めているだけでも楽しめるが、ここには何もない。
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