61 / 396
荒唐無稽な夢
「もう。やらしーなぁ篠宮さん。俺の顔見たら、欲しくなっちゃった?」
「ばっ、馬鹿……何を言ってる」
「篠宮さんが言い出したんじゃん!」
結城が愉快そうに笑い声をあげる。頰に血がのぼるのを感じながら、篠宮は視線をそらした。襟元に手を伸ばし、直す必要もない半衿の出具合を、必死になって何度も直す。
「……電車が来た。乗るぞ」
努めて冷静な顔を作り、篠宮は銀色のラインが入った地下鉄の車両に、先に立って乗り込んだ。
「いやー、混んでましたね。一時間くらい並んだかな」
参拝が終わると、結城は両腕を上げて思いきり伸びをした。
「そうだな。今、三時を少し過ぎたところだ」
篠宮が時計を見ながら応えた。
やはりというべきか、元日の神社は参拝目的の人々でかなりの賑わいだった。正直なところ篠宮は、どこまで続くのかという長蛇の列を見ると尻ごみして、思わず帰ろうかと言いだすところだった。結城が迷わず並びに行くので、仕方なく隣についていったのだ。
「でも、無事にお参りできて良かった。お賽銭も奮発して、ばっちりお願いしときましたよ。俺が篠宮さんを幸せにするから、どうか力を貸してくださいって」
「仕事運はどうした」
「あ。忘れてた」
「そんな事だろうと思った」
篠宮は呆れた声で言い放った。まあ仕事なんて、最終的には自分で努力すればいいだけの話だ。実力がないのに出世したって、後で苦労するだけだろう。
しかし。神頼みだろうがなんだろうが、とりあえずはしておいたほうが、意欲を持って仕事に取り組めるかもしれない。そう思った篠宮は、彼のためにひとつだけ付け加えた。
「参拝する前に、長い階段があっただろう。あれを上りきると出世できるらしいぞ」
「え、本当ですか? 社長になれるかな?」
「階段を上っただけでそんなにご利益があるなら、世界中の人間が上りに来てる。いきなり高望みしすぎだ。君はいま平社員だろう。係長か課長あたりにしておけ」
篠宮はそう諭したが、結城はまったく聞いていない。
「もし俺が社長になったら、篠宮さんには秘書になってほしいんですけど」
「まだそんなふざけた事をいってるのか」
「えー、ふざけてませんよ。本気で言ってます」
大真面目に言い切る結城を見て、篠宮は溜め息をついた。たしか、こんなやりとりを以前にもしたような気がする。
「ねえ篠宮さん。俺、入社した日に言いましたよね。結婚を前提にお付き合いしてくださいって。篠宮さんぜんぜん信じてくれなかったけど、あれ、本気だったんですよ。今なら解るでしょ?」
「……嫌というほど解った」
篠宮は小さな声で返事をした。なぜあれを冗談だと決めつけていたのか、今となっては信じがたい思いだ。
「だから、社長になるっていうのも本気ですよ。コネじゃなく、ちゃんと実力でなってみせます」
胸に手を当て、結城はきっぱりと言い切った。
篠宮は再び大きな溜め息をついた。結婚まで承諾した覚えはないが、恋愛なんて一生縁がないと思っていた自分を強引に口説いて、恋人として付き合う約束をさせたくらいなのだ。社長云々という、一見荒唐無稽な夢だって、ひょっとしたらこの調子で叶えてしまうかもしれない。その時のことを考えると、どんな波乱が待ち受けているのかと、胸に暗雲が広がっていくのを感じた。
「のど渇いたな。篠宮さん、そこの出店でなんか買ってきません?」
能天気な声を出しながら、結城が道の先に腕を伸ばす。篠宮は彼が指差す方向に眼を向けた。ゆるい坂の下には、初詣の客を当て込んだ屋台が所狭しと立ち並んでいる。
「そうするか」
篠宮はすぐに同意した。参拝のために並んで疲れたということもあり、たしかにこの辺りで冷たい飲み物が欲しいところだ。西日に変わりかけた光が燦々と降り注ぎ、ひたいに汗を感じる。おそらく気温は二十度近くあるだろう。袷の長着に羽織では暑いくらいだ。
「俺が買ってきますよ。お茶でいいですか?」
「ああ」
篠宮の注文を聞くやいなや、結城がぱたぱたと袖をはためかせて屋台に駆け寄っていく。やはり七五三のようだと、篠宮は心の中で呟いた。肩から斜めにかけた信玄袋や、きっちりと足袋を履いた足許が可愛らしい。
「残念! うちの会社のはありませんでした」
ペットボトル二本を片手に持ち、結城が元気よく戻ってきた。
「たまには飲んでみよう。他社の動向を知ることも大事だ」
「さすが、営業の鑑ですね。俺も見習わなきゃ」
感嘆の声をあげながら、結城は勢いよく蓋を開けた。氷水の中に浸かっていたのか、水滴で濡れたペットボトルはよく冷えていて、今日のような暖かい日にはちょうどいい。
「……篠宮さんのお父さんって、背、高かったんですね」
何を思ったのか、結城が唐突にそんなことを言いだした。
篠宮は隣に眼を向けた。袴を着た篠宮の袖口や裾を、結城がしみじみと眺めている。
「この着物、お父さんの形見って言ってたじゃないですか。篠宮さんこんなに身長があるのに、袖も着丈もぴったりだから」
「そうだな。はっきりとは覚えていないが、着物の丈がこんなに丁度いいんだ。今の私とそう変わらなかっただろう」
「へえ……この袴、きっとお父さんもよく似合って、カッコよかったんでしょうね」
結城の言葉を聞いて、篠宮は記憶にある父の姿を思い出した。怜悧という言葉が相応しい、白く秀でた額。物憂げな切れ長の瞳にやや薄いくちびる、頰から顎にかけての整った輪郭。そのすべてが、まるで昨日見たもののように脳裏に甦った。
ともだちにシェアしよう!