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【それはとても簡単なこと】

 雨の音が強くなった。  顔を上げて、篠宮は隣の部屋に眼を向けた。ベッドの上に寝そべって雑誌を読んでいる結城の姿が、開けっ放しの扉の向こうに見える。  ページをめくってはいるものの、大して興味を引く記事もないようで、結城は退屈そうに何度も寝返りを打っていた。降りしきる雫が激しく窓を叩き、休みなく跳ね返りながら流れ落ちていく。  篠宮は時計を見た。十五時十八分。そろそろ、切り上げてもいい頃だろう。  眼の前のテキストを閉じ、篠宮は椅子に腰かけたまま大きく息をついた。気配を察して、結城がすぐに顔を上げる。 「終わりました?」  ああ、と篠宮はうなずいた。  その返事を耳にした瞬間、結城の表情が、陰鬱な雲を吹き飛ばしそうなほどに明るくなる。英語の復習が終わるまでじゃれつくなと言われ、忠実な犬のごとくおとなしく待っていたのだ。  すぐに立ち上がり、結城は篠宮のそばに寄ってきた。ぱたぱたと振る尻尾が背後に見えるような気さえする。 「篠宮さん。俺、邪魔しないで静かにしてましたよ」  身をかがめ、結城は篠宮の顔を覗きこんだ。その瞳が、褒めて褒めてと語っている。 「おやつにしましょうよ。ほうれん草とベーコンのキッシュ作ったんです。篠宮さんは甘くない物のほうが好きかなと思って。冷めても美味しいけど、やっぱりあったかいほうが良いですよね。今、ちょっと温めます」  そう一息に言うと、結城は台所に向かった。  篠宮がいま住んでいる、このマンションに越して三年近くになるだろうか。それからというもの、ただの一度たりとも料理に使うことのなかった、真新しいままのキッチンだ。使ってくれる人も居ないのに設備だけは整っているのを見ると、結城は勝手に調理器具を持ち込んで、たちまち自分仕様にしてしまった。 「はい、どうぞ」  厚みのあるパイのようなものが、眼の前のテーブルに置かれる。続けて、マグカップに入ったカフェオレが運ばれてきた。 「これが家でできるのか」  篠宮は感嘆の声を上げた。  こんがり焼けた生地の香ばしさが食欲をそそる。キッシュといえば、洒落たベーカリーでたまに見かける……その程度の認識だ。実際に結城が作っているところを見ていなかったら、どこかで買ってきたのだと思って疑うこともなかっただろう。 「できますよー。ていうか篠宮さん、なんであんな高いオーブンレンジ買ったんですか? 宝の持ち腐れですよ」 「別に意味はない。買いに行ったら、最初に勧められて……選ぶのも面倒だから、あれでいいかと思ったんだ」 「やっぱりそうですか。篠宮さんらしいや」  苦笑しながら結城は席についた。  篠宮は向かいの椅子にちらりと眼を向けた。その椅子も、二脚組だったため仕方なくセットで購入したものだ。一人暮らしだから、一脚で充分だと思っていたが……まさか二脚同時に使う日が来ようとは考えてもいなかった。 「なんていうか……一月病ですかねー。仕事行くより、こうやって家で篠宮さんとゆっくりしてたい」  カフェオレのカップを口に運びつつ、結城がめずらしく溜め息をつく。 「ただの休みボケだ。もう二月だぞ。働け。人間、働かないと身体も心もどんどん:鈍(なま)っていくぞ」 「まあ……会社には行きますけどね。仕事してる篠宮さん、カッコよくて好きだから。でも、会社じゃ篠宮さんと二人になれないじゃないですか。運よく二人きりになっても、ちょっとキスしようとしただけで怒るし」 「当たり前だ!」  篠宮は眉を吊り上げてみせたが、結城は気にせずに再び溜め息をついた。 「ああー、俺が大金持ちだったらなあ。海外のどっかに大きな家建てて、プールとかテニスコートで篠宮さんといっぱい遊んで、気が向いた時だけ仕事するんですけど」  小さなナイフで皿の上のキッシュをつつきながら、結城が夢を語り始める。篠宮は不思議に思って口を開いた。 「君からそんな言葉を聞くとは意外だな。たしかに世界的に見れば上には上があるだろうが、国内でいうなら、うちの会社は間違いなく一流企業の部類に入るだろう。君だって、庶民には想像もつかないような贅沢をして育ってきたんじゃないか」 「とんでもない! うちの親父、ケチなんですよ。ここぞって時にはばばーんと使うけど、普段は財布の紐、ぎゅうぎゅうに絞ってます。大学に入ったら小遣いもくれなくなったし、学費もほとんど自分でバイトして払ってました。大学出たら普通に働けとか言われてたし……でもそのおかげで篠宮さんと出逢えたから、親父には感謝してます」  えへへ、と結城が相好をくずす。その顔を見て、篠宮は来週からの仕事を思い出した。 「そういえば君は、月曜と火曜に研修の予定が入っていたな」 「ああ。はい、そうですね」 「何時からだ」 「昼過ぎからです。朝は普通に出社して、十一時半くらいに出る感じですかね。あーあ、嫌だなあ。研修なんて……」  結城が口をとがらせて不満をもらす。勉強するためにわざわざ出かけるなど、面倒に思う気持ちはたしかに解る。篠宮は労わるような声で彼をなだめた。

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