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嫉妬の炎

「外部研修はためになるぞ。頑張ってこい」 「研修が嫌なんじゃなくて、篠宮さんと過ごす時間が減るのが嫌なんです」  きっぱりとした口調で言い切ると、結城は向かい合ったまま急に居ずまいを正した。 「篠宮さん。俺、真面目に頑張ってくるから。行ってらっしゃいのチューしてください」  いきなりそう言ったかと思うと、テーブルに両手をついて立ち上がり、前のめりになって篠宮に顔を近づける。篠宮は面食らって、椅子に座ったまま後ずさった。 「今するのか?」 「だって、会社じゃしてくれないでしょ?」 「するわけないだろう!」  篠宮が怒ってみせても、結城はいっこうに引き下がる様子がない。それどころかますます前かがみになり、キスしやすいように顔を傾けてくる。 「ね、してください」  仕方ない。ちょっとくちびるをくっつけてやれば、それで気が済むだろう。そう思って立ち上がりかけた篠宮は、次の刹那、急に我に返った。休みの日に自宅に部下を招いて、自分はいったい何をしているのか。 「……どうしてもしないと駄目か?」 「今したくないっていうなら、それでもいいですよ。月曜日に会社で、キスしてくれなきゃ出かけられないって大騒ぎします」  理屈も何もない滅茶苦茶な言い草だ。脅迫もいいところだが、結城の場合、脅しではなく本当にやりかねない。 「しょうがない奴だな」  無理やり押し切られ、篠宮は諦めて上半身を前に傾けた。そのまま背すじを伸ばし、結城と軽くくちびるを合わせる。  ほんの一秒のキスを済ませると、篠宮はすぐに顔を離した。ちょっとばかり不満そうな結城の表情が、視界の中に入る。 「行ってらっしゃい、って言ってください」 「……行ってらっしゃい」  そこまで要求どおりにしてやると、結城はようやく満足げな笑顔を見せた。 「行ってきます」 「……楽しいか?」 「楽しいです。だって、新婚さんみたいじゃないですか! 篠宮さんと新婚ごっこですよ! もう、テーマパークとかに行って一日遊びまくるより、今の一瞬のほうが断然楽しいです」  見るからに幸せそうな顔をしながら、結城はスプーンでキッシュをすくい取って口の前に差し出した。 「はい篠宮さん。あーんして」  頰を緩ませる結城を見て、篠宮はがっくりと肩を落とした。もはやいちいち逆らうのも面倒になってきた。  諦めて口を開ける。手首を軽く曲げ、結城が舌の上にスプーンをのせた。生クリームとマッシュルームの香りが鼻の奥に広がる。 「んふふー。幸せー」  窓の外に降る冷たく無情な雨も、この部屋までは届かない。テーブルに片肘をついて頰をのせ、結城は笑みを浮かべながら、篠宮の顔をいつまでも飽かずに眺めていた。  ◇◇◇  月曜日になった。  休憩所のいつもの席に座り、篠宮はぼんやりと外を眺めた。土砂降りではないものの、今日もどんよりとした雨模様の空だ。窓の外に立ち並ぶビルが、薄暗い空の下で灰色に煙っている。  結城は無事に研修会場に着いただろうか。明日はもう少しましな天気だといいが。買ってきた昼食を口に運びながら、篠宮は結城の身を案じた。  半分ほど食べたところで満腹感を覚えて、篠宮はサラダの入った容器をテーブルの上に置いた。食欲がないと思って少な目に買ってきたはずなのに、それでも余る始末だ。  しかし、食事は時間内に済ませておかなければならない。そう思いつつ、篠宮は残りをどうにか胃の中に収めた。  どこか身体の具合が悪いのだろうか。ここのところ、ずっとこの調子なのだ。結城と一緒の時はそこそこ食欲が湧くが、一人になると食べる気がほとんど起きない。  料理上手な結城の作る食事を食べているうちに、舌が肥えてしまったのかもしれない。あるいは、一人でとる食事を退屈に感じているだけなのだろうか。溜め息とともに、そんなことを考えてみる。 「やあ、マサユミ。久しぶりだね」  :胡散(うさん)くさいほどに柔らかな声が、唐突に耳に届いた。  篠宮は顔を上げた。経営戦略部のエリック・ウォルター・ガードナーだ。販売促進やイベント企画などの手腕を買われて、若いながらも部長補佐を務めている。篠宮とは大学時代に何度か顔を合わせたことがあった。正直なところ、個人的にはいささか苦手な相手だ。 「そうですね。クリスマスのとき以来でしょうか」  冷たいわけでもなく、さりとて愛想良いわけでもなく、篠宮は当たり障りのない口調で返事をした。  どうやらエリックは、篠宮に対して並々ならぬ興味を持っているらしい。ここに結城が居たら、また嫉妬の炎を燃やして大騒ぎしただろうが、一人で相手をするぶんには適当にあしらって帰せばいいだけだ。特に問題はない。 「さすがに仕事が忙しくてね。君に会いにくる時間もなかったよ」  物憂げに睫毛を伏せて、エリックは笑った。美しい緑の瞳が、潤んだように煌めいている。 「聞きました。先日の展示会、大成功だったそうですね。おめでとうございます」 「いやあ。大したことないよ、あのくらい。でもマサユミにそう言ってもらえると、ちょっと嬉しいな」  そう言ってエリックは髪をかき上げた。何でもない仕草も、彼がすると途端に:気障(きざ)な感じに見えてくる。

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