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人の問うまで
「今日と明日はユウキが研修に行くって聞いてね。この機を逃す手はないと思って、慌てて飛んできたんだ」
話しながらテーブルに近づき、エリックはいつも結城が座っている席を手で示した。
「隣に座ってもいい?」
「申し訳ありませんが、そちら側でお願いします」
篠宮は迷わずに向かいの席を示した。いくら結城が研修で不在だとはいえ、エリックを隣に座らせたなどと知れたら、後でどんな事になるか分かったものではない。残念そうに両手を広げながらも、エリックは篠宮の指示に従っておとなしく向かいの席に腰かけた。
「最近、ユウキとはどうなの? うまくいってる?」
「そんなこと、あなたに関係ありません」
「関係はあるよ。君がユウキと別れたら、ぼくにもチャンスがめぐってくるかもしれないからね」
エリックが意味ありげに笑う。相も変わらず白馬の王子さまのような、腹立たしいほど魅力的な笑顔だ。
「あなたに見せられた、あの動画……あれに映っていたのは、結城の妹だったんです」
感情を抑え、篠宮は静かに事実だけを述べた。結城は妹と会っていただけだ。アメリカから一人でやってきた妹を心配するのは当然のことだろう。
そこに:諍(いさか)いの種など何もない。何か尋ねられたら、そう答えるつもりだった。しかし、エリックの口から飛び出したのは意外な答えだった。
「そんなことくらい、分かってたよ」
「ご存知だったんですか?」
「元から知っていたわけじゃないよ。でもユウキの様子を見ていたら、よっぽど鈍い人間じゃないかぎり分かるだろう? あれほど君に執着してるのに、他に恋人を作って会うなんて考えられないじゃないか」
篠宮は口をつぐんだ。自分はその『よっぽど鈍い人間』に分類されるのだろうか。そう言われると否定できない。
「まあこの広い世界の中、そういう人間もまったく居ないわけではないだろうけどね。ユウキはそんな器用なことができるタイプじゃない。妹か、:従姉妹(いとこ)か……ごく近い、血縁関係にある女性だろうなとは思ったよ」
不意に言葉を切り、エリックは篠宮の肩の辺りを見つめた。
服に埃でもついているのだろうか。そう思って首をひねった篠宮の耳に、次に聞こえてきたのは意外な言葉だった。
「マサユミ。君、少し痩せたんじゃない?」
「……そんなことはないと思います」
「いや、痩せたよ。体重計に乗ってごらん。間違いなく二、三キロは減ってるはずだ」
エリックはあくまでそう言い張った。篠宮は最近の食生活を思い出してみた。たしかに近頃、食欲がない。袖口をめくって手首を見ても、以前より少し骨ばっている気がする。
「君はユウキのことをどう思ってるの?」
いきなり話題を元に戻され、篠宮は眉をひそめた。
「どうと言われても……彼は私を好きだと言っていますが、私のほうは……そうではありません」
「そうではない……か。好きでもなんでもないって割には、ずいぶん親密なんだね」
彼はにやりと笑った。親密。そのひとつの単語に、あらゆる意味をこめている。
「それは、成り行きというか……押し切られてそうなってしまっただけで……」
「本当にそれだけ? 何度も寝てるんだよね? よっぽど身体の相性がいいのかな?」
エリックが微笑と共に問いかけてくる。篠宮は思わず眼をそらした。社内でこんなことを言われるなんて、立派なセクハラだ。誰かに相談してみようか、という考えが一瞬心に浮かぶ。
篠宮の会社では、人間関係の悩みがある場合の相談窓口を、外部に頼んで設定していた。社内の人間には知られたくないという、デリケートな問題に悩む人たちへの配慮である。
だが具体的に対策をとるとなれば、やはり実名も明らかにしなければいけない。
性的な被害を受けた女性たちがなぜ泣き寝入りせざるを得ないのか、篠宮はようやく理解した。ただでさえ:辛(つら)い目に遭っているのに、そんな辱めを受けることなど耐えられない。きっと今この瞬間にも、助けを求めることすらできず、我慢に我慢を重ねている女性がこの世には山ほど存在するのだろう。
「君たちを見てると、本当に面白いよ」
何が面白いというのか、エリックが声を立てて愉快そうに笑う。篠宮は口許を引き結んで、対抗の意志を固めた。ハラスメントだなどと騒ぎ立てるまでもない。自分は男なのだ。このくらい、軽く受け流してみせる。
「忍ぶれど色に出でにけり我が恋は……マサユミ、君はこの歌を知ってる?」
「物や思うと人の問うまで、ですか。百人一首の中にありますね」
「そうだね。よくできました」
エリックが満足そうに笑う。篠宮は首を傾げた。なぜ今、彼がこの和歌を話題に出したのか理解できない。
考えてみれば、違和感はそれだけではない。篠宮の体重の話をしたかと思えば、強引に結城のことに話を戻し、極めつけが今の和歌の話だ。彼はもっと、会話を上手につなげていくことのできる男だったように思う。
「食欲がないの? 体調でも悪いのかな?」
エリックが再び、昼食のことに話を戻した。
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