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本気で恋をしたら
今日の彼は妙だ。話に脈絡がない。何事だろうと:訝(いぶか)しく思いながらも、篠宮は真面目に答えを返した。
「体調は悪くありません。食欲も……普通だと思います」
「ふうん。それだけしか食べてないのに?」
エリックはテーブルの上を見遣った。篠宮が昼食を終えた後の、空の容器がそのまま置いてある。
サラダにゼリー飲料にお茶……どう考えても、成人男子の腹を満たす量ではないのが一目瞭然だ。ダイエット中の女性だって、栄養バランスを考えてもう少し食べているだろう。
「ねえマサユミ。それは、恋だよ。君はユウキのことが好きなんだ。ぼくに隣に座ってほしくないのは、そこが彼の席だからだよ」
恋という単語を聞いて、篠宮は頰がかっと熱くなるのを感じた。
結城のことをどう思っているのかという、直接的な質問。百人一首の中にある、忍ぶ恋の歌。病気でもないのに、食欲が出ないのはなぜなのか。関連性がないと思っていたエリックの話のすべてが、頭の中でひとつに組み合わさる。冷静沈着で仕事が恋人と言われ続けてきた自分が、結城に恋をしている……エリックはそう言っているのだ。
「そんなはずありません」
篠宮は即座に否定した。
たしかに、結城と過ごす時間はとても心地よい。だがそれは、結城が自分に好意を持って、なにかと世話を焼いてくれるからだ。友情の延長のようなもので、恋とは断じて違う。
「恋をすると胸がいっぱいで食欲がなくなる……よく聞く話だろう。一時的に食が細くなるのには、理由がある。恋愛の初期に分泌されるフェニールエチルアミンというホルモンは、食欲を減退させるんだ。これは、科学的に証明されていることだよ」
淀みなく始まるエリックの説明を聞きながら、篠宮はくちびるを噛み締めた。
ふとした瞬間に、結城に逢いたいと思うことはある。声を聞くとほっとして、隣にいてほしいと感じることもある。だが、この思いが恋と呼ばれるものだとは……とても信じられない。
「好きなら好きって言ってあげたらいいじゃないか。きっと彼、飛び上がって喜ぶよ」
「これは、恋なんかじゃありません」
「強情だねえ。まあ、そういうところも可愛いんだけど」
すべてを見透かすような眼で、エリックが篠宮をじっと見つめる。なぜか寒気を感じて、篠宮はみずからの肩を手で押さえた。
「仮に私が彼に好意を持っていたとして……だとしたら、どうだと言うんですか」
「学術的に興味があるんだ。冷たく美しく、無慈悲な女王のような君が、本気で恋をしたらどう変わるのか……面白いと思わない?」
眼を細め、エリックはからかうような笑みを浮かべた。もちろん篠宮にとっては、:欠片(かけら)も面白い話ではない。
「マサユミ。ぼくが今まで、どうやってこれだけの業績をあげてきたか分かる? その鍵を握るのは、心理学だよ。行動心理学、社会心理学、産業心理学……人の心理が解れば、たいていのことは判断できる。君の気持ちなら、たぶん君自身よりよく解っているよ」
なぜ自分がエリックを苦手だと感じるのか、篠宮はようやく理解できた。何もかもを見通すような……いや。実際に見通してしまう、この緑の瞳に嫌悪感を覚えるのだ。
「まず第一にね。そもそも君は、好きでもない奴に身を任せるような男じゃないよ」
「……どうして、私がそうじゃないと判るんですか。もしかしたら、私にはあなたの知らない一面があるかもしれないのに」
「判るよ。君が単に快楽を求めているだけなら、ぼくの誘いを断るはずがない」
エリックが微笑と共に断言する。すごい自信だ。自分が魅力的だと分かっているからこそ出る台詞 だろう。整った容姿に二十八歳という若さ、そして部長補佐の肩書き……たしかに彼の自信は、決して根拠の無いものではない。
「ぼくと君が出会ったのは、君が大学一年の時だよね。日本の大学というものは受験さえ終われば、後の四年間はほぼ遊んで暮らせるんだろう? あの、誰も彼もが恋愛にうつつを抜かしている時期に、君は誰も寄せつけず孤高を貫いていた。この会社に来てからも、それは変わっていない。冷徹、真面目、寡黙で何を考えているか判らない……企画部のレディたちに訊いたら、ここに来てからの君の様子はだいたい把握できたよ」
くちびるの端に笑みを刻んで、エリックは話し続けた。
「まず君は、恋というものを信じていない。そんなものは、一時の気の迷いだと思ってる。それは何故か。そう思うようなサンプルが身近にあったからだ。そう、たぶん。両親が不仲で、愛情の薄い家庭で育った……違う?」
篠宮は黙りこんだ。図星だ。これが心理学とやらの力なのだろうか。ここまで的確に言い当てられると、空恐ろしい気さえする。
「ユウキの性格はよく知ってるよね? 明るくて天真爛漫、そして我がままだ。自分の大事な物を護るためなら、上司にたてつくことも厭わない。周囲に愛されて育ってきた人間の典型的な姿だよ。それは、君にも解るだろう?」
篠宮は否定しなかった。彼の言うことはいちいち的を射ていて、反論のしようがない。
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