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寂しかった
「もうすぐバレンタインデーじゃないか。日本では、意中の相手にチョコレートをあげるんだろう? 君もユウキにあげてみたらどうかな。ああ、彼が甘い物が好きかとか、そんなことは気にしなくていいと思うよ。君から貰える物なら、彼はなんでも喜ぶはずだから」
彼に言われて初めて、篠宮はバレンタインデーというものの存在を思い出した。およそイベントというイベントの中で、これほど自分から遠い物は他に無かった。
「銀座あたりに行けば、大切な人に贈るに相応しいチョコレートの店がいくつかあるはずだよ。今の時期なら、デパートも特設会場を作って販売に力を入れてるんじゃないかな。どう? 目利きのために、一緒に行ってあげようか?」
「結構です。余計なトラブルの元になりますから」
「剣もほろろだなあ。その綺麗な顔で冷たくあしらわれたら、妙な性癖に目覚めそうだよ」
微笑を浮かべ、エリックが相変わらずの笑えない冗談を口にする。それを無視して、篠宮はいま離れた場所にいる結城に思いを馳せた。
エリックの話に惑わされるつもりはない。だが、もし想いを伝えないまま結城が命を落としたら。それは現実に起こり得ることだった。
愛してます、篠宮さん。結城にそう優しく愛を囁かれるたび、温かい想いが胸を満たすのをいつも感じる。だとしたら……自分も彼に、同じ想いを与えてあげるべきではないのか。肌に電気が走り、胸の底が熱くなり、身体のすべてが幸福に包まれるようなあの想いを。
思わずあふれそうになった感情を、篠宮は慎み深く心の中に押しとどめた。
結城はクリームの載ったケーキの類が好物で、一緒にコンビニに行った時は必ず、眼を輝かせてデザートの並んだ棚を見に行く。たぶんチョコレートも嫌いではないだろう。
「……休憩時間が終わりますので。失礼します」
バレンタインにチョコを渡すというのは良い考えのように思えたが、だからといってそのとおりにするのも、エリックの思惑に従っているようで癪だ。一人になって、もう少し気持ちを整理してみたい。
「ああ。またね、マサユミ」
名残惜しそうなエリックの視線を首筋の辺りに感じながら、篠宮は仕事へ戻るため席を立った。
◇◇◇
「篠宮主任。結城くんから電話入ってるよ。五番」
受話器を片手に立ち上がり、牧村主任が篠宮に声をかけた。
「はい」
それを聞いた篠宮は、自分の机上にある電話に眼を向けた。すぐに五番のボタンを押し、受話器を耳に当てる。結城らしい明るい声が電話の向こうから響いてきた。
『あ、篠宮さん。いま研修終わりました。俺、頑張りましたよ。着眼点がいいって、講師の人にも褒められました』
「そうか。明日もその調子で頼む」
返事をしながら、篠宮は時計を見た。定時まであと一時間足らずだ。
「もうこんな時間だ。今日は直帰でいい。天野係長には私から伝えておく」
『えー。篠宮さんに逢ってから帰りたいのに』
「午前中に会っただろう。いいから早く帰って今日の復習でもしておけ」
『はぁい』
結城が残念そうに呟く。昼間聞いたエリックの例え話が、ふと頭の中をよぎった。
もし、本当に彼が事故にでも遭ったら。そんな事あるはずないと思いながらも、不安が鋭い針になってちくちくと胸を刺した。
「結城……」
『なんですか?』
「疲れただろう。気をつけて帰ってくれ」
「えっ……?」
結城が驚いたように息を飲む。一瞬の沈黙があった。
『どうしたの篠宮さん? 優しい……もしかして今日、俺がいなくて寂しかった?』
「馬鹿。そんなわけないだろう」
いつもの調子で短く言い放つと、篠宮はつい反射的に受話器を置いてしまった。
いくらなんでも失礼な切りかただっただろうか。そう思い直して受話器を再び持ち上げるが、電話はすでに切れてしまっている。諦めて溜め息をつき、篠宮は仕事を続けるため机に向き直った。
結城がこの世から居なくなるなど考えたくもないが、人として生まれた以上、命には限りがある。取り返しのつかないことになる前に、自分の素直な気持ちを伝えておくべきだ。エリックの言うことにも一理はあった。
「……そういえばおまえさあ。例の彼女と上手くいってんの? えーと、名前なんつったっけ。レイナちゃん、だったっけ?」
少し離れた席から、話し声が聞こえてきた。後輩の山口の声だ。
「うーん……まあ……まあまあってとこかな」
返事をしているのは、その隣の席にいる佐々木だろう。何か思い悩むことでもあるのか、暗い声だ。
「なんだよ、浮かねえ顔じゃん。合コンですげえ美人ゲットしたって騒いでたのに。そのレイナちゃんって、マジであの写真のとおりなのかよ? 盛 ってねえ?」
「盛ってないよ。あのとおりだよ」
「じゃあいいじゃねえか。あんな可愛い彼女がいて、何が不満なんだよ。まだ付き合い始めて一か月くらいだろ?」
仕事中の私語は控えてもらいたい。そう注意したいところだったが、山口たちの席と自分の間には大きなパソコンのディスプレイが二台ある。わざわざ立ち上がって言うほどのことでもないと思い、篠宮はそのまま作業を続けて様子を見た。
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