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勝手なイメージ

 バレンタインデーの朝。篠宮は通勤ラッシュのピークを避け、いつもより早めの電車に乗り込んだ。  鞄の中には、チョコレートの箱が忍ばせてある。あらかじめ下調べをして、昨日の休みに繁華街まで足を伸ばし、何軒かの店を回って最終的に決めた物だ。  甘い香りの立ち込めるチョコレート専門店には、予想していたよりも多くの男性客が来ていた。店員との会話から察するに、普段から自分用に購入している男性は意外と多いようだ。甘い菓子は女性や子どもが好むものだと思い込んでいたが、それは世間が作り出した勝手なイメージなのかもしれない。  そういえば、結城もケーキが好物だ。自分がこれまでなんとなく彼を子供扱いしていたのは、そのせいもあったのだろうか。今になって初めてそう思い至る。  女性客に較べれば遥かに少数ではあるものの、男性の客も店にいたおかげで、篠宮はなんとか彼らに混じって目的の物を買い求めることができた。  バレンタインといえば、海外では日本とは逆に、男性から女性に向けて贈り物をする習慣がある。菓子の並んだショーケースを真剣に眺めている男性の中には、そういった客も何人かいたのだろう。そんなことを考えながら、駅の構内を出て信号を渡る。  これを渡したら、結城はどんな顔をするだろうか。通い慣れたいつもの道を歩きながら、篠宮は考えてみた。驚くだろうか。喜ぶだろうか。自分のような男からチョコを貰って何が嬉しいのかはさっぱり解らないが、とりあえず笑顔になるだろうということは多少なりとも想像がつく。  今までの付き合いで、結城の行動パターンはだいたい理解していた。その場でキスをしようと迫ってきたら、頰をひっぱたいて、義理だと言い放ってやろう。心の中で、篠宮はそう固く決意した。  会社のエントランスが見えてきた。  ガラスの扉を抜け、右側の階段を目指して歩く。まだ朝早いためか、出社してくる人影はまばらだった。  途中の喫茶店でコーヒーでも買って、少し時間を潰してきたほうが良かったかもしれない。今さらのようにそう思ったが、気づかなかったのだから仕方ない。結城のことを考えていたら、いつの間にか着いてしまったのだ。  二階の営業部を目指し、篠宮はいつものように階段を上った。踊り場で折り返そうとして、床の上に何かが落ちていることに気づく。  篠宮は身をかがめて拾ってみた。どうやら小銭入れのようだ。女性が好みそうなローズピンクの本体に、直径十センチはあろうかという大きなフェイクファーのキーホルダーが付いている。  この大きなキーホルダーには見覚えがあった。これはたぶん、天野係長の物だ。彼女が昼の休憩に行くときに、カーディガンや鞄のポケットからはみ出しているのをよく見かける。  服装こそいかにもキャリアウーマンといった感じの天野係長だが、意外と可愛い物が好きで、特にふわふわしたピンク色の小物には目がない。おそらく彼女の物で間違いないだろう。違ったら、落とし物として後で総務に届けておけばいい。  ビル内には、夜間になると清掃業者が入るはずだ。ということは、これは今朝の出社時に落とした物ということになる。たぶん彼女は、自分よりも前にこの階段を通ったのだろう。  天野係長はどこにいるのだろうか。始業までにはまだ間があるから、休憩所のベンチに腰掛けてお茶でも飲んでいるのかもしれない。  始業までまだ三十分以上あるというのに、上司が早々と席に着いていては、後輩たちも仕事しづらいだろう。予定より早く会社に着いてしまった時に、彼女が時間を調整するため暇つぶしをしている姿は何度か見たことがあった。  後輩は先輩より先に出社しなければいけない。そんな理不尽なことを言う上司が世間には存在するという。今どき時代錯誤だと思うが、中にはその言葉を信じて気を遣う新人もいるかもしれない。みんなが余計な気を回さないよう、早くもなく遅くもない、適度な時間に席に着くようにする。天野係長はそういった気配りができる女性だ。  階段を上りきったところで廊下の突き当たりを見ると、案の定、彼女はそこにいた。缶ジュースを片手にベンチにすわりながら、くつろいだ様子で窓の外を眺めている。篠宮は近くまで歩いて声をかけた。 「おはようございます」 「あら、篠宮くん。おはよう」  彼女が振り向いた。腰まであるポニーテールが揺れる。篠宮は先ほど拾った小銭入れを差し出した。 「階段の所に、これが落ちていたのですが。係長の物ではありませんか?」 「え? あ! ほんとだ。あたしのだわ」  がさがさと鞄のポケットを探ってから、天野係長はきまり悪そうに右手を差し出した。 「ぜんぜん気づかなかったわ。ありがとう。ま、中身は十六円しか入ってないんだけどね」  苦笑と共に、彼女は小銭入れの中身を手のひらに出した。たしかに十六円だ。  金額まで正確に分かっているということは、この小銭入れは彼女の物ということで間違いないだろう。無事に渡せたことにほっとしながら、篠宮はその場を後にしようとした。

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