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可愛くて面白い
「篠宮さーん!」
騒々しい声が、廊下の向こうから響いてきたのはその時だった。声の主が誰なのかは、振り向いて見なくても判る。
「おはようございます!」
月曜の朝とは思えない明るい表情で、結城が挨拶をする。
この男は、週の始まりで憂鬱になることはないのだろうか。その元気を少し分けてほしい。きらきらと輝く結城の瞳を見ながら、篠宮は心の中で呟いた。同時に、曇りのないその笑顔に自分が癒されていることに気づく。胸の奥が引き絞られるように甘く疼いた。
「おはよう。結城くんも、今日はいつもより早いじゃない。どういう風の吹き回し?」
「だって今日、バレンタインじゃないですか。篠宮さんにプレゼント渡そうと思って早く出てきたんです」
そう言うと結城は、片手に提げた紙袋から長方形の箱を取り出した。
「はい篠宮さん。これ、俺からのプレゼント」
満面の笑みと共に、大きなリボンのついた箱が差し出される。有無を言わさず両手に持たされたプレゼントを、篠宮はまじまじと凝視した。
落ち着いた紺色の化粧箱が、淡いピンクのセロファンで包まれている。半透明の洒落たラッピングのおかげで、わざわさ開けなくても中身は見えるようになっていた。オパール色の緩衝材に包まれて箱の中に小ぢんまりと並んでいるのは、ウイスキーとリキュールのミニチュアボトルだ。
酒のミニチュアボトルはよく見かけるが、このようにセットで売っている物は見かけたことがない。おそらくチョコレートよりもこちらのほうが篠宮の好みだと思って、数あるボトルの中から選んで買い揃えてくれたのだろう。
わざわざ、自分のために。そう思うと何かくすぐったいような気持になってくる。結城が渡したプレゼントを見て、天野係長が歓声をあげた。
「あら。ちっちゃくて可愛い! そっかあ、篠宮くんお酒好きだもんね。さすが結城くん、抜群のセンスだわ。いいわねえ篠宮くん。相変わらず愛されてるわね」
そこまで言うと、天野係長は傍らにあった自分のバッグを引き寄せた。大きく開けたファスナーの間に手を突っ込み、どこかの店のロゴが入ったビニール袋を無造作に取り出す。
「実はね。あたしもバレンタインのプレゼント用意してきたのよ。満員電車で箱が潰れたら嫌だなと思って、今日は少し早く出てきたの。結城くんと一緒ね」
うふふ、と彼女は楽しそうに笑った。どうやら女性にとって、綺麗にラッピングされたプレゼントを贈りあうバレンタインデーという日は、理屈抜きで心が浮き立つ一大イベントらしい。
「はい、これ篠宮くんに」
「……ありがとうございます」
ハート形のケースに入ったチョコレートを受け取りながら、篠宮は先ほど結城に礼を言っていなかったことを思い出した。貰った瞬間に胸がいっぱいになってしまい、言えなかったのだ。小さいながらも精巧にできたミニチュアボトルはインテリアにも相応 しく、たしかに自分の好みに合っている。後で落ち着いたら、丁寧に感謝の意を述べておこう。
「はい、結城くんもどうぞ」
係長は結城にも、チョコレートが入っていると:思(おぼ)しき箱を渡した。
「ありがとうございます。あの、えっと……天野係長。なんか、篠宮さんのチョコのほうが気合い入ってないですか?」
篠宮と自分の貰った箱を見較べながら、結城は首を傾げた。
篠宮の箱はハート形をしており、濃い赤と金色のリボンを二重にかけて結んである。結城の貰ったほうはよくある長方形の箱で、リボンも地味な色だ。大きさもだいぶ違う。
「あら、気づいてなかった? あたし、篠宮くんのことけっこう好きよ」
「えええっ!」
結城が素っ頓狂な声を出した。その顔を見て、係長が愉快そうに笑う。
「えー、だって。可愛いし、面白いじゃない。見てて飽きないわ」
「駄目ですよ係長! だめ駄目ダメ、篠宮さんは絶対ダメ! 俺の大事な篠宮さんに手を出したら、たとえ係長でも許しませんからね!」
ものすごい剣幕で抗議しはじめる結城を、篠宮は一歩引いて横目で眺めた。係長も意外と人が悪い。結城がうろたえる所を見たくて、わざとこんなふうに差をつけたのだろう。
部下として、自分が天野係長から信頼されていることは分かっている。だが彼女が言う『けっこう好き』は、どう考えても恋愛感情ではない。そういった機微に疎い自分でも、そのくらいは判る。だいたい、可愛くて面白いというのは、男性に対する褒め言葉なのか。
「もう、落ち着いてよ結城くん。そんなに血相変えて言わなくたって、篠宮くんに手なんか出さないわ。だってあなたたち、付き合ってるでしょ?」
「……へっ?」
虚を突かれて、結城が間抜けな声を出す。声こそ出さなかったものの、その思いは篠宮も同じだった。
結城が入社初日から篠宮にプロポーズしたことは、一部では有名な話だ。それ以来毎日のように『篠宮さん大好き』を連発していることも、この営業部署内で知らない者はない。だが結城の一方的な想いではなく、篠宮のほうもそれに応えているとなれば話は別だ。
あなたたち、付き合ってるでしょ。もし自分の聞き違いでなければ、そう言われたような気がする。篠宮は恐る恐る尋ねてみた。
「あの……天野係長。それはいったい、どういう意味……」
「どういう意味って……そのままの意味よ。んー。付き合ってる、だけじゃ解りづらかったかしら。恋人として交際している、と言うべきだった?」
「こっ、恋人……! たしかに結城はそういった類 の冗談を言うことが多いですが、私たちは別に」
動揺のあまり声が震えるのを感じながら、篠宮は視線で隣に助けを求めた。だが、結城は天野係長を見つめたまま、ぽかんと口を開けて呆然としている。篠宮はくちびるを噛み締めた。こういう時こそ、お得意の舌先三寸でなんとかしてくれるべきではないのか。
「そんなに必死になって隠さなくてもいいわよ。もう解ってるから」
あっけらかんとした顔で、天野係長が言い放つ。篠宮の首筋に冷や汗が流れた。彼女は直属の上司なのだ。ふだんあまり接点のない部署にいる、エリックに知られているのとは訳が違う。
「去年、篠宮くんと結城くんの二人で出張に行ったことあったでしょ。十一月だっけ? あのあと一週間くらい、妙にぎくしゃくしてたじゃない。ああ、なんかあったな……って思ったのよね」
篠宮は顔から血の気が引いていくのを感じた。あの出張の夜。実際は『なんかあった』どころの騒ぎではない。
「結城くん、相当ぐいぐい迫ったでしょ? もしかして犯罪レベルだったんじゃない? ……まあ篠宮くんってけっこう鈍くて、自分の気持ちにも気づかないようなとこあるから、結果的にはそれで正解だったのかもしれないけどね。なんにしても、今うまくいってるんだったら別にいいわ。これからもがんばってね。応援してるわよ」
「あの……天野係長って、超能力かなんか持ってるんですか?」
結城がぽつりと呟く。馬鹿、と篠宮は心の中で毒づいた。そんなことを言ったら、二人の関係を認めたも同じではないか。
「係長。私と結城は本当に、そういった関係では……」
「ああ、安心して。たぶん営業部の他の人は、誰も気づいてないと思うから。仕事中の篠宮くん、ほんと結城くんに冷たいもんね。もうちょっと優しくしてあげればいいのにって、みんな言ってるわよ」
否定しかけた篠宮の言葉を、彼女は強引にさえぎった。篠宮は諦めて溜め息をついた。もうどんな言い訳をしても無駄だろう。というより、真実なのだから仕方がない。
「まあ仕事に支障がないなら、あたしからどうこう言う気はないわ。でも、うちって社内恋愛禁止でしょ。他の人にはバレないようにしてほしいの。まあ篠宮くんは大丈夫だと思うけど、結城くんは絶対暴走するから。篠宮くん、ちゃんと:手綱(たづな)握っといてね。お願いよ」
一瞬真剣な眼を向けたかと思うと、彼女は急に口許を緩めた。
「まだ始業までにはもうちょっとあるわね。さっ、次は誰にチョコ渡してこようかなー!」
大きなバッグを抱え上げ、係長が去っていく。結城が静かな声で呟いた。
「女の人の勘って……怖くないですか?」
「同感だな」
遠ざかっていく彼女の姿を見ながら、篠宮は心から賛同の意を示した。
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