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人目が気になって
「あー、やっと終わったよ。疲れた疲れた」
隣の席で、結城が腕を上げて大きく伸びをした。
時計を見ると、定時を僅(わず)かに過ぎたところだ。窓の外はすっかり暗くなっている。
もうこんな時間か。パソコンのディスプレイに視線を戻しながら、篠宮は鞄の中に入ったままのチョコレートに思いを馳せた。
朝、係長からあんな話を聞いてしまったせいだろうか。いつも以上に人目が気になって、結城にチョコレートを渡すことなどとてもできそうにない。いつも鬱陶 しいほど近くに居るような気がしていたが、よく考えると、社内で結城と二人きりになれる時間はほぼ皆無に近かった。誰にも見られずに渡せるチャンスなどあるわけがない。
篠宮は後悔した。こんな事なら、朝の始業前にさっさと渡してしまうべきだった。あの場には天野係長もいたが、彼女は二人の関係に気づいていたのだ。諦めて認めてしまえば、隠す必要もなかっただろう。
「篠宮さん。仕事終わりました?」
「まだ少しかかるな。あと二、三通メールを送ったら帰る」
「俺、終わるの待ってようかな。バレンタインだしー。篠宮さん、一緒に食事に行きませんか? それともうちに来ます? アメリカではバレンタインにプロポーズするって、けっこう一般的なんですよ」
屈託なく笑いながら、結城が篠宮の顔を覗きこむように首を傾ける。大仰な仕草で胸に手を当て、次の瞬間、彼はこう囁いた。
「Will you marry me?」
王子が姫に求婚するようなその声音に、篠宮は頭痛がするような思いでひたいを押さえた。非常識にもほどがある。ここは会社で、なおかつ今は勤務中だというのに……その神聖な職場に在りながら、なんという甘い、魅力的な声で囁くのか。思わずうなずいてしまうところだった。
「馬鹿。明日も仕事だぞ。しかも、まだ月曜日なんだ。とっとと帰れ」
「もう。ノリが悪いなあ。俺もう、何回もプロポーズしてるのに。これだけ言い続けてたら、一度くらい間違って、イエスって答えてくれてもいいと思いませんか?」
「思わない」
「ちぇー。しょうがないなあ。じゃ、今日はおとなしく帰ります」
結城は机の下から紙袋を取り出した。中には、今日もらったチョコレートが入っている。天野係長や企画部の女性だけではない。昼休みが終わった後も、総務やら人事部やらの女性たちが、用事にかこつけて結城にチョコレートを渡しているのを何回か見かけた。
あんなふうに、気軽に渡せたら。篠宮はそう思ったが、いざとなるとつい:躊躇(ためら)ってしまう。気負いすぎなのだろう。
「結城……」
紙袋を手に更衣室に向かおうとする彼を、篠宮は小さな声で呼び止めた。
「え?」
「その……プレゼント……ありがとう。感謝する」
やっとの思いでそれだけを告げる。篠宮は視線が合わないように眼を伏せた。今の自分には、これが精一杯だ。
結城が嬉しそうに微笑んだ。
「気に入ってもらえました?」
「ああ」
「良かった。ウィスキーは篠宮さんの好きなのにしたんですけど、リキュールの瓶をどれにしようか迷ったんですよ。みんな綺麗な色だなーと思って……売り場の前で一時間くらい悩んじゃいました。でも、喜んでもらえたなら嬉しいです」
プレゼントを選んだ時の苦労を、結城が楽しげに話しだす。
篠宮はキーボードに触れる自分の指先を見た。そうだ。得意先にメールを送らなければいけない。結城のほうの仕事は終わったかもしれないが、こちらはまだ勤務中なのだ。
「……お疲れさま」
篠宮はねぎらいの挨拶を述べた。仕事の邪魔をしてはいけないと思ったのか、結城がすぐに話を中断する。
「あ、はい。じゃ、お先に失礼します」
踵を返して歩いていく結城の後ろ姿を、篠宮はやるせない思いで見つめた。渡せなかったチョコレートの存在が、晴れない雲のようにもやもやと胸にわだかまる。
彼が帰ってしまう。どうする、と篠宮は自分の心に問いかけた。今からでも遅くはない。追いかけて渡すか。それとも家まで届けに行くか。いきなり押しかけても、結城はたぶん、迷惑がらずに部屋へ招き入れてくれるだろう。その点は確信が持てた。
渡すのか渡さないのか。たった二つしかない選択肢の間で、頼りない振り子のように心が揺れ動く。結城の姿が出入り口の向こうに消えていくのを見ながら、篠宮は静かに結論を出した。
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