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暗黙の了解
……駄目だ。追いかけて渡すことなど、できるはずがない。
深い諦めと共に、篠宮は瞳を閉じた。渡す機会がなかったというのは、ただの言い訳に過ぎない。本当は、渡す勇気がないのだ。自分は彼に恋愛感情を持っている。その気持ちを明確に認めるのが、怖いのだ。
何が君をそんなに頑 なにさせているのか。エリックに言われた言葉を篠宮は思い出した。
答えは分かっている。きっと自分は、別れの時が来るのを恐れているのだ。愛が冷め飽きられて、さよならを言われる日が来るのが、何よりも恐ろしいのだ。
渡さなくて正解だったのかもしれない。始まらなければ、終わることもない。眼の前のディスプレイに並んだ文字を見つめながら、篠宮はそう考えて自分を慰めた。
チョコレートの賞味期限はまだ先のはずだ。帰ったら、とりあえず冷蔵庫に入れておけばいいだろう。
「佐々木。おまえ、どうしたの? さっきからニヤニヤして、気持ち悪いぞ」
ディスプレイの向こうから、山口の声が聞こえてきた。
「へへへー。実はさー、レイナちゃんから『仕事終わったら電話してね』って連絡が来て」
「おっ、やったじゃん。どうなんだよ、チョコレート期待できそうか?」
「それがさあ、もう……ふふ……へへへ……『チョコレートケーキ作って家で待ってる』だって! レイナちゃんのほうから誘ってくれたの、初めてだよ!」
「おまえもう顔面崩壊してるぞ……いいから早く帰れ。隣でそんな顔されたんじゃ、素で気持ち悪い」
「はいはいもう帰りますよー。じゃあね山口。お先!」
佐々木のはしゃいだ声が響いてくる。
恋とはそんなにも楽しく、喜ばしいものなのか。幸せそうな佐々木の声を聞きながら、篠宮は、なぜ自分の恋はこんなにも切なく苦しいのか、答えを求めて当てもなく心を彷徨 わせていた。
金曜日の夜は二人で過ごす。それが暗黙の了解になってから、もうどのくらい経っただろうか。
「パスタ美味しかったですねー。いいなあ篠宮さん。家の近くにあんないい店があって」
玄関先で靴を脱ぎながら、結城が店の感想を述べた。
「気に入ってくれたのなら良かった。それほど頻繁に行くわけでもないが、仕事帰りにたまに寄るんだ」
「あの牡蠣と海苔のパスタ、めちゃめちゃ美味しかったですよ! あれ、家でできないかな」
結城が真面目な顔でそんなことを言い始める。
「君ならできるかもしれないな」
料理のできない篠宮にとっては、家で作ろうという発想自体が有り得ない。これほどまでに何もかも正反対な自分たちが、なぜこんな関係を続けているのだろうか。ふとそんなことを思う。
「あ! ミニチュアボトル、飾ってくれたんですね」
寝室の本棚を見て、結城が歓声を上げた。透明なケースの中に、バレンタインのプレゼントが綺麗に収まっている。
「ああ。殺風景だから、なにか飾ろうと考えていて……ちょうど良いと思ったんだ」
「もー、部屋にミニチュアボトルなんか飾っちゃって! 可愛いなあ!」
愛しくてたまらないといった様子で、結城は篠宮をコートの上から抱き締めた。逃げようとする篠宮の頭を抱えこみ、すりすりと遠慮なく頬ずりをする。
「君が寄越した物だろう」
「だから可愛いんじゃん! もう、チューしちゃうからね!」
頬ずりだけでは飽き足らず、結城は耳許にキスをし始めた。
勢いに押されて、篠宮が背後のベッドに倒れこむ。その上にのしかかり、結城はくちびるを押しつけてきた。外の空気で冷えていたはずの身体が、瞬 く間に熱く火照ってくる。
「んっ、ふ……結城、まだ……待ってくれ」
すぐに反応してしまう自分の身を疎ましく思いながら、篠宮は結城の肩をそっと押し戻した。外から帰ってきたばかりで、まだコートも脱いでいないのだ。がっつくにも程がある。
「やばいやばい、チューだけじゃ済まなくなるとこだった……また篠宮さんに、ムードが無いって怒られちゃうよ」
やんわりと拒絶され、結城は渋々といった顔で上半身を起こした。困ったように笑いながら、立ち上がってコートを脱ぐ。
「せっかくの週末なんだから、ここで終わらせちゃもったいないよね。後でいーっぱい可愛がってあげるから、それまで我慢して」
「我慢できないのは君だろう」
「そうかなあ。篠宮さんのほうがエッチな身体してると思うけど」
からかうような笑みを浮かべて、結城は篠宮のくちびるを指先でなぞった。
「う……」
ベッドの上であられもなく乱れる姿を、もう何度も見られているのだと思うと、強く反論もできない。篠宮は顔を赤らめて黙りこんだ。
「そういえば、食後のコーヒー頼むの忘れてましたね。俺、カフェオレ飲みたいな。牛乳って、冷蔵庫にありますか?」
「……ああ、入っているはずだ」
きのう買った物を思い出しながら、篠宮はうなずいた。結城はカフェオレやココアの類が好きなので、彼が来ると分かっている時は、少し多めに買い置きをしてある。
「篠宮さんはなにか飲みます?」
結城が上着を脱いで腕まくりをし始めた。
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