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不思議な既視感
「な……何が……」
何があったんだ。そう尋ねようとしたが、身体中を取り巻く凄まじい疲労感と気だるさのせいで、うまく言葉が出てこなかった。
「……イキすぎて失神してたんです。済みません。やり過ぎました」
それだけ言うと、結城は再び黙りこんだ。飼い主にこっぴどく怒られた犬のように、首をうなだれてしょげかえっている。気を失った篠宮を見て、生きた心地もしないほど心配したに違いない。
「心配しなくていい……大丈夫だ」
横になったまま、篠宮は自分の胸に手を当ててみた。過度の疲労による倦怠感があるだけで、他におかしな所はない。おそらく、浅い息を何度も繰り返したせいで、一時的に過呼吸になったのだろう。
「良かった……」
結城が安堵の溜め息をついた。今にも泣きそうなその顔を見ると、自業自得とはいえ不憫になってくる。
あのチョコレートは自分が買ったものだと、正直に言ってしまおう。そう思って篠宮は口を開いた。元はといえば、わざと誤解を招くような言いかたをした自分が悪いのだ。
「結城。あのチョコレートは……」
「いいんです、もう」
首を横に振り、結城は篠宮の言葉をさえぎった。
「もういいんです。誰から貰ったかなんてどうでもいい。どこの誰がどんなチョコレートを寄こそうが、あなたを世界でいちばん愛してるのは俺です。それだけは、絶対に自信がある」
涙をこらえながら切なく訴えかけると、結城は篠宮に向かってそっと手を差し出した。
「立てますか?」
「……ああ」
結城に肩を支えられ、篠宮は上半身を起こした。汗で濡れたままのシャツが、肌に張り付いて気持ち悪い。体温が奪われたせいか寒気を感じて、篠宮は軽く身震いした。
「お風呂場行きましょう。篠宮さんは座ってるだけでいいです。髪も身体も、俺がぜんぶ洗ってあげる」
結城の肩を借りて、篠宮はベッドから下りた。なんとか立ち上がったものの、足許が:覚束(おぼつか)ない。風呂場に向かいながら少しよろめいて、篠宮は隣に寄りかかった。
「ごめんなさい……」
見ていて可哀想になってくるほど意気消沈した顔で、結城はまた頭を下げた。
「謝るくらいなら最初からやるな、馬鹿」
「俺がバカになっちゃうのは、篠宮さんのせいですよ」
うつむいたまま、結城は小さな声で呟いた。
彼は、不安なのだ。篠宮は初めてそう気づいた。彼とこういう関係になってから、週末の夜を共に過ごし、肌を重ねるのは暗黙の了解になっている。だがいくら身体を繋げても、そこに心が伴わなければ虚しいだけだ。
篠宮は、安易に彼をからかったことを後悔した。たかが自分の事でこんなにも一生懸命になり、その一挙一動に翻弄され、すぐに箍 を外してしまう彼を心の底から愛しいと思った。
腰に回された結城の手に、篠宮はそっと自分の指を絡めた。触れた肌から、暖かな喜びが流れこんでくる。
互いに愛し合って相手を大切に想うことが、罪であるはずはない。ふとそんな思いが胸をよぎった。
篠宮は隣にいる結城の横顔を見た。倒れそうになるとすぐに支えてくれるその腕に身を寄せながら、篠宮は、自分が彼に恋するのは正しいことなのだと確かに感じていた。
◇◇◇
朝の光が、水色のカーテンの隙間から差し込んでいる。
夢うつつのまま、篠宮は隣に手を伸ばした。少し皺の寄った、冷えたシーツが手のひらに触れる。
どこからかトーストの焼ける香りが漂ってくる。かちゃかちゃと食器の鳴るような音が扉の向こうから聞こえた。おそらく、結城が朝食を作りながら洗い物をしているのだろう。
また寝坊してしまったか。そう思って篠宮は溜め息をついた。普段は早起きなほうだが、彼と過ごした次の朝はいつも少し寝過ごしてしまう。気を失うほど激しく求められた昨夜の余韻が、甘い疼きとなって身体の奥に残っていた。
簡単な身支度を終え、カーテンを開けて太陽の光を入れる。寝室を出ると、流し台の前にいた結城が、振り向いて笑顔を見せた。
「あ。おはよう、篠宮さん。コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「ああ……コーヒーを頼む」
「はーい。すぐ淹れますね。座って待っててください」
結城が明るい声で返事をする。不思議な既視感を覚え、篠宮はテーブルのそばに立ち尽くした。こんなやり取りが以前にもあったような気がする。
寝過ごしてしまった休日の朝。先に起きて朝食を用意している結城の姿。コーヒーにするのか、それとも紅茶にするのか。きつね色に焼けたトーストの香り。ありふれた日常の中に、息が詰まるほどの喜びがあると、初めて知ったのはいつの事だったか。
静かな決意が、篠宮の胸に満ちていった。気持ちを伝えるのに、チョコレートだのプレゼントだのは必要ない。
妙な小細工は必要ない。自分の素直な想いを彼に伝える……それは、とても簡単なことなのだ。
「……結城」
結城が、棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出そうとしている。その後ろ姿に、篠宮は声をかけた。
「え? なんですか?」
結城が笑みを浮かべて振り返る。篠宮は抑えた声音で問いかけた。
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