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笑顔の理由

「前に、君は言っていただろう。君と過ごす時……私の世界を、私の好きなものでいっぱいにしたいと」  そう言った篠宮の顔は、もしかしたら少し強張っていたかもしれない。その真剣な表情を見て、結城はたちまち真顔になった。 「はい……言いました」 「君がいてくれれば、それでいい」  低く、しかしはっきりとした声で、篠宮はそう告げた。 「……篠宮さん」  篠宮の言葉の意味を、結城は瞬時に理解した。コーヒーの瓶をその場に放ったらかして、信じられないという顔をしながら篠宮のほうに駆け寄ってくる。 「ほんとに……本当に?」 「ああ」  静かにうなずきながら、篠宮はいま言った告白の意味を胸の中で繰り返した。自分の世界の中には、彼だけが居ればいい。彼さえ居れば、世界のすべては、自分の好きなもので満たされるのだ。 「あのチョコ……もしかして篠宮さんが俺のために用意してくれたの?」 「あの日、渡そうとして……渡せなかった。仕方なく持って帰って、冷蔵庫に入れておいたんだ」 「もう。最初からそう言ってくれたら、つまんない嫉妬なんてしなくて済んだのに!」  驚きと憤りで顔を赤くして、結城は篠宮に詰め寄った。篠宮が申し訳なさそうに口をつぐむ。子供のような結城のふくれっ面が、すぐに泣き笑いのような表情に変わった。 「ごめん。俺があんなふうに問い詰めたから、言えなかったんだよね……? 本当にごめんなさい」  素直に頭を下げて謝ると、結城は篠宮の手を優しく握った。 「ね、篠宮さん……俺のこと好き?」 「好きだ」  天上の甘やかな調べを聴くように耳を澄ませ、結城はほうっと溜め息をついた。 「もう一回、言って」 「……好きだ」 「もう一回」 「何度も言わせるな!」  篠宮が、目尻を吊り上げながら言い放つ。その身体を強く抱き締め、結城は頰をすり寄せた。 「嬉しい……」  結城の眼から涙があふれ、篠宮の頰を伝い流れていった。その涙が、悲しみによるものでないことは明白だった。 「篠宮さんの世界を、篠宮さんの好きなものでいっぱいにしてあげる。俺の全部を、篠宮さんにあげる……愛してます。ずっとずっと愛し続けて、篠宮さんがもうこれ以上いらないって言うくらい、幸せにしてあげる。約束します」  篠宮の身体を抱き締めたまま、結城が何度も誓いの言葉を繰り返す。篠宮は眼を閉じて、その温かく心地よい抱擁に身を任せた。 「そうだ……篠宮さん」  急に何か思いついたように、結城は腕を解いた。篠宮の肩に両手を置き、今まで見たこともないほど真剣な表情で、その瞳を真正面から見つめる。 「篠宮さん。結婚しましょう。今から指輪買いに行きましょう。式場も決めてきましょう 。気が変わらないうちに」 「そこまで良いとは言ってない!」  篠宮が声を荒らげる。甘い場面に相応しくない怒鳴り声に、結城がぽかんとした表情を見せた。その眼を篠宮が睨みつける。互いに顔を見合わせたまま、五秒が経過した。 「……ふっ」  不意に結城が、こらえきれない様子で肩を震わせた。 「ふっ……ふふ……あはは」  声を上げて彼は笑い始めた。目頭に指を当て、こぼれてくる涙を拭いながら、なんの屈託もなく幸せそうに笑っている。 「まったく……」  そんな彼の笑みを見ているうちに、篠宮は自分もいつのまにか微笑を浮かべていることに気づいた。  ああ。自分はきっと、彼の笑っている顔が好きなのだ。篠宮はようやく自覚した。小難しい理屈など要らない。自分は彼の笑っている顔が好きだ。そして願わくば、その笑顔の理由は自分であってほしいと思っているだけなのだ。 「どうしよう篠宮さん……俺、嬉しすぎて、会社の人に全部しゃべっちゃうかも。篠宮さんが俺のこと好きって言ってくれて、今じゃラブラブの両想いで、エッチの相性も最高ですって」 「なっ……! そんなこと、一言でも口にしてみろ。ただじゃおかないからな」 「だって、俺に告白するためにチョコレートまで買ってきたんですよ? 篠宮さん可愛すぎる……みんなに言いたくなっても仕方ないと思いませんか?」 「馬鹿っ。告白するためじゃない。近くまで行ったから、ついでに買ってきただけだ」  話しているうちに、恥ずかしさで顔が赤くなってくる。思い余って、篠宮は結城の両肩を強くつかんだ。なんでもいい。とにかく黙らせなければ。  まばゆい朝の光が窓から射し込んでいる。真っ直ぐに篠宮を見つめる結城の瞳が、太陽のきらめきを宿していた。絶対に届かないと思っていた、明るく美しい太陽のきらめきが、いま自分の眼の前に在る。 「でも……」 「馬鹿。黙れ」  結城がまだ何か言いたそうにしている。その唇に自分からキスをして、篠宮は静かに彼の言葉を封じこめた。

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