83 / 396

【愛しいあなたが待つ家に】

「えー! 有給?」  信じられないといった表情で、結城がいきなり大声を上げた。 「ああ」  昼食のパスタをつつきながら、篠宮は静かに答えた。この話を聞いた結城がどんな顔をするかは、あらかじめ想像がついていた。この反応は、予想の範囲内だ。 「今日、部長から該当者に通達があったんだ。規定の期間内に、きちんと有給休暇を消化してくれと」  そう言いながら、篠宮は窓の外を見た。綺麗に整えられた植え込みの前では、女性社員たちが歓声をあげながらバドミントンの羽を打ち合い、平和な昼休みを満喫している。  ここからでも意外とはっきり見えるものだな。その事に気がついて、篠宮は、今後はより一層警戒しようと心に決めた。  日中は今のように、植え込みの周りで休み時間を過ごす者も多いが、朝夕はほとんど無人になる。結城は二人きりになると、所かまわずすぐキスをしたがるのだ。いくら周りに人がいないといっても、こうして誰かが窓から見るということも有り得る。用心するに越したことはない。  とにかく、社内では絶対駄目だ。どんな甘い言葉を囁かれても、断固拒否しよう。篠宮はそう固く胸に誓った。 「でも。いきなり期限つけられて、有給消化しろなんて言われても言われても困りませんか? 仕事の都合だってあるのに」  得心がいかないといった様子で、結城は口をとがらせた。 「いきなりというわけではない。年度の初めに言われていたんだが、君が入社して余計な面倒に巻き込まれているうちに、すっかり忘れていたんだ」 「ひどい言われようだなあ。俺、余計な面倒なんて起こしてません」 「私から言わせてもらえれば、余計な面倒しか起こしてないぞ、君は」  篠宮は呆れて溜め息をついた。入社初日から上司にプロポーズし、好きだと公言して憚らず、近づく者には嫉妬心をむき出しにして吼えたてる。これが面倒以外のなんだというのだろうか。自覚がないというのは恐ろしいものだ。 「有給かあ……会社で篠宮さんと逢えないのは寂しいけど、まあ仕方ないですよね。で、いつ取るんですか?」  何やらぶつぶつと文句を言いながらも、結城は最終的にそう返事をした。会社のルールということで一応は納得したらしい。篠宮は再び口を開いた。 「部長には、来週にでも取りますと答えておいた」 「えー、来週? そんなに急に?」 「四月になったら新入社員が入ってきて、また体制が変わってしまう。年度内に、せめて五日間は取ってくれと念を押されたんだ」 「来週に五日間って……まるまる一週間じゃないですか! 篠宮さんが一週間もいなかったら、俺、日干しになっちゃいますよ! せめて分散するとかできませんか?」 「仕方ないだろう。他のメンバーは、せっかくだから連休で取りたいと言っているんだ。私が飛び石で休むと、他の人が連休を取りづらくなる」 「うー……」  犬のような唸り声をあげたかと思うと、結城はしばらく考え込んだ。 「……じゃあ。俺も有給取って一緒に休みます。篠宮さんに五日間も逢えないなんて、会社に行く意味ないです」  こいつはいったい、何をしに会社に来ているのか。頭痛がしてくるような気がして、篠宮はひたいを押さえた。ときどき結城のことを、自分にはもったいないほど最高の恋人で、息もできないほど愛しいと思う瞬間があるが、あれはきっと何かの間違いによる錯覚なのだろう。 「君はまだ有給休暇が無いはずだぞ」 「え? そうでしたっけ。えっと、十一、十二……あー、ぎりぎり駄目か」  指折り数えて、自分の勤務期間がまだ有給取得に満たないと知ると、結城はがっくりと肩を落とした。 「もー。俺が社長になったら、有給は最初から貰える会社にしよう……」  テーブルの上を見つめながら、訳の解らないことを呟き始める。篠宮は無視して言葉を続けた。 「君も入社して五か月になる。そろそろ一人でも、ある程度は大丈夫だろう。なにかあった時のサポートは、牧村主任にお願いしてある」 「大丈夫じゃないです! 篠宮さんがいなかったら、俺死んじゃいます!」  それだけ言うと、結城はテーブルに突っ伏した。自分の腕に顔をうずめ、小声で唸りながら肩を揺すって身悶える。仕事とプライベートの板ばさみになって苦しんでいるらしい。 「……分かりました」  しばらく経つと、結城はなにか決意した様子で顔を上げた。 「篠宮さん。その有給の間、俺の奥さんになってください」 「……は?」  実際のところ、結城が何を言いたいのかだいたい想像はついたが、篠宮はあえて理解できないふりをした。 「俺が会社行ってる間、俺の部屋で帰りを待っててください。そしたら俺、愛する妻のために頑張って働きます」 「嫌だと言ったらどうするんだ」 「もう俺、会社に行きません! 欠勤になろうがなんだろうが、篠宮さんと一緒に家で過ごします」  結城が子どものように頰を膨らませる。大の男が見せる表情ではないが、結城の場合、顔立ちに幼い部分が残っているせいかあまり違和感がない。 「またそんなくだらない事を……」  篠宮は肩で息をついた。

ともだちにシェアしよう!