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惚れた弱み
恋人のために会社を休む。もちろん結城も、そんなことを本気で思っているわけではないだろう。わざと無理を言って甘えているだけなのだ。
「だからー。お休みの間、俺の奥さんになってください。ね、いいでしょ? 部下をやる気にさせるのも上司の務めですよ。ね、ね?」
必殺の上目遣いで見つめられ、篠宮は苦々しい思いで眼をそらした。いちばん腹立たしいのは、結城の我がままに怒りを感じるどころか、甘えられて嬉しいと思ってしまっている自分自身だ。
「仕方ないな……」
篠宮は渋々うなずいた。休みとはいえ、別に何か予定があるわけでもない。言われなくても、結城と過ごす時間を多めに取ろうとは思っていたのだ。
「言っておくが、私は料理も何もできないぞ」
「えー、もう何もしなくていいです。好きに過ごしててください。家に帰ったら篠宮さんに逢える、それだけで俺は幸せです」
えへへーと、結城は顔中を緩ませて締まらない笑みを浮かべた。
「ちょうど、部屋の模様替えしようと思ってたんですよ。篠宮さんが来るまでに済ませておきますね」
「力仕事なら手伝うぞ」
「いえ、いいんですよ。可愛いお嫁さんを綺麗な部屋でお迎えするために、俺ひとりで頑張ります」
可愛いお嫁さんとは誰のことかと思いつつ、篠宮は口を閉ざして黙りこんだ。ここで不毛な会話をしても時間の無駄だ。
「篠宮さん。日曜日の夜に、うちに来てください。それまでに新しい家具入れて、ぜんぶ片付けときますから。今週だけは、金曜日のエッチはお休みしましょう」
新しい計画に心躍らせた様子で、結城が嬉しそうに話しかけてくる。誰がどう聞いても、部下と上司の会話ではない。
ここに盗聴器が付いていたら一巻の終わりだな。そんな考えがふと胸をよぎり、篠宮は本当に頭痛を感じてこめかみに指を当てた。
結城の住むマンションは、いわゆる学生街と呼ばれる場所にある。
若者が多いとはいっても、夜遊びができるような賑やかな場所はほとんどない。辺りには神社や寺院、古書店が立ち並ぶ落ち着いた住宅街だ。
やや古びたエレベーターのボタンを押し、目的の階で降りる。通路の端まで歩くと、篠宮はドアの前に立ってインターホンを押した。程なく、デニムのエプロンを着けた結城が顔を出す。
「もう。ピンポンなんて鳴らさないでくださいよ。自分の家でしょ」
からかうような口調で言われ、篠宮は面食らった。たしかに鍵は持っているが、このマンションに来る時は基本的に結城と一緒なので、あまり使ったことがない。
「君の家だろう」
「だからそれは篠宮さんの家じゃないですか」
にこにこと機嫌よく笑いながら結城が答える。篠宮は諦めて受け流すことにした。会話が成立しないのはいつもの事だ。
「着替えくらいしか持ってこなかったぞ」
「あーもういいですいいですそれで。なんなら着替えだって、俺の使えばいいだけだし」
結城に促され、篠宮は見慣れた部屋に足を踏み入れた。模様替えをすると言っていたが、台所を見回してみても特に変わった様子はない。新しく家具を入れたとすれば、おそらく居間か寝室だろう。
続いて、篠宮はテーブルの上に眼を向けた。ローストビーフに色鮮やかなパエリア。帆立のカルパッチョに、綺麗に飾り付けた生ハムのサラダが置いてある。傍らのグラスはぴかぴかに磨かれて、冷たいシャンパンが注がれるのを待つばかりになっていた。
「すごいご馳走だな」
「だって、今日は俺たちの結婚記念日なんですよ? このくらい用意しなきゃ」
「……結婚した覚えはないぞ」
「俺的には結婚してます。ね、ね、早く座って。乾杯しましょう」
呆然と佇む篠宮の手からコートを奪い取り、結城は強引に椅子を勧めた。ハンガーに吊るしたコートを居間のドアにひょいと引っ掛け、待ちきれない様子で冷蔵庫からシャンパンを取り出してくる。
「かんぱーい」
飲み物を注ぎ終えて席に座ると、結城は幸せそのものといった顔でグラスを差し出した。
「あー駄目。顔がにやけてきちゃう」
一口も飲んでいないのに、もう酔ったような表情で、結城はうっとりと呟いた。
甘えも我がままも自分勝手なところも、それが彼の愛情表現なのだと思うと、すべてが愛しく感じられてしまう。これが惚れた弱みという奴なのか。喉の奥でシャンパンの泡が弾けるのを感じながら、篠宮は、今だけは恋人の望みを叶えてやってもいいだろうと自分の心に言い訳していた。
食事を終え、少し休んでから先にシャワーを浴びさせてもらう。風呂から上がると、篠宮はタオルで髪を拭いながら寝室の扉を開けた。
「ん……?」
以前とは違う寝室の様子に、篠宮は驚きの声をあげた。
結城が意気込んで模様替えをしたのは、どうやらこの部屋だったらしい。棚の位置が少し変えてあり、壁にも以前にはなかった絵が飾ってある。だが何よりも目立つのは、部屋の真ん中にこれ見よがしに鎮座している、高級そうなダブルベッドだった。
「えへへー。新しいの買っちゃった」
少し遅れて風呂を出た結城が、背後から声をかけてくる。
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