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可愛らしい寝顔
道路を行き交う車の音が聞こえる。
「ん……」
カーテンの隙間からのぞく太陽が眩しい。顔の前に片手をかざし、篠宮は朝の光をさえぎった。
隣では、結城が満足そうな表情で眠っている。どことなくあどけなさの残る、可愛らしい寝顔だ。ベッドの上で時に甘く、時に意地悪く恋人を翻弄する、あの彼と同じ人物とはとても思えない。
横たわったまま、篠宮はぼんやりと天井を見つめた。天気が良いからだろうか。いつもの朝より光がまばゆいように感じられる。それに、早朝にしては行き来する車の数がやたらと多い。
いま何時だろう。そう思って首を回した篠宮は、時計に眼を向けて仰天した。
「おい!」
一気に意識が覚醒する。篠宮は跳ね起きて隣を見た。平和な顔で眠っている結城の肩に手を掛け、がたがたと乱暴に揺り起こす。
「もう八時だぞ! 早く起きろ!」
「えー……八時? ああ……会社かあ。仕方ないなあ」
気の抜けた声で呟き、結城は眼をこすりながら伸びをした。焦る様子がまったくない。篠宮のほうがよほど慌てている。
「だからやめてくれと言ったんだ。せめてもうちょっと加減してくれたら、私も寝坊せずに済んだかもしれないのに」
「そんなこと言っても、しょうがないじゃないですか。あんなに可愛く『中に出して』なんておねだりされたら、理性なんてどっか行っちゃいますよ」
「そんな言いかたはしていない! 朝っぱらからなんの話をしてるんだ!」
頭から怒鳴りつけると、篠宮は裸の結城をベッドから叩き出した。
「大丈夫ですよ。三十二分の電車に乗れば間に合います。ていうかいつも俺、起きるのはこのくらいの時間だし」
「そうだったのか……?」
篠宮は顔を引きつらせながら聞き返した。道理で、いつも始業時間ぎりぎりなわけだ。
「ふぁーあ」
下着だけを身に着け、結城はあくびをしながら寝室を出ていった。程なく洗面所から、歯を磨くような音が響いてくる。どう考えても間に合わないだろうと思っていたが、結城は恐るべき速さで顔を洗い髭を剃り、髪を整えてスーツを着込んだ。
「じゃ、行ってきます。篠宮さん」
眼だけはまだ眠そうにしながら、結城は篠宮の首を抱き寄せて口接けた。
「よく考えたら。結婚してるんだから、名字で呼ぶのおかしいですよね。『正弓』って呼んでいいですか?」
「駄目だと前に言っただろう。そんなことより早く出たほうがいい。遅刻するぞ」
「もう。なんで駄目なんですかー? ケチだなあ。じゃあ代わりに、俺のこと『奏翔(かなと)』って呼んでください」
「か……」
最初の一文字だけを口にして、篠宮は黙りこんだ。怒りと羞恥で頬が熱くなってくる。
「いいから早く行け、馬鹿!」
手を伸ばして結城を外へ押し出し、篠宮は音を立てて玄関の扉を閉めた。
結城が出かけてしまうと、たちまち暇になった。
掃除くらいはしておいてやるか。そうは思ったが、元々たいして汚れていないので、気合を入れて綺麗にする必要もない。洗濯物も少ないし、食器は昨日のうちに結城がすべて片付けてくれている。
まあいい。休みなのだから、自分の好きなように過ごせばいいのだ。篠宮はそう心を固めた。
散歩がてら食べる物を買いに出かけ、ちょうど十時になって開店したばかりの本屋に寄る。たまに小説でも読んでみるかと思い、並んでいる中から読み応えのありそうな物を何冊か買った。
結城はまともに仕事をしているだろうか。そんなことを思いながら食事をとり、買ってきた本を読む。調べ物をしたりニュースを見たりといったことを交互に繰り返すうち、いつのまにか辺りは暗くなっていた。
電話が鳴ったのはその時だった。
篠宮は通話ボタンを押した。若くて張りのある聞き慣れた声が、耳許を優しく撫でる。
『あ、篠宮さん。仕事終わりました。今から帰りますね』
「そうか」
とりあえず相槌を打ち、篠宮は続く言葉を待った。だが、結城はそれきり何も言おうとしない。会話が途切れ、篠宮は少し不安になった。
「……どうした。なにか用事があるんじゃないのか」
『いえ、用事は別にないです。今から帰るよっていう、ただの報告です』
「……はあ……」
篠宮は、限りなく疑問形に近い曖昧な返事をした。仕事が終わったら帰ってくるのは当たり前ではないか。篠宮たちの会社は基本的に定時で上がることができるし、残業してもせいぜい一時間だ。いちいち報告の電話をする意味が解らない。篠宮が沈黙していると、結城は痺れを切らしたような声でこう言った。
『もう、篠宮さんてば。早く帰ってきてねダーリン、って言ってくださいよ』
「一生帰ってくるな!」
顔を真っ赤にして怒鳴りつけ、篠宮はぶつりと電話を切った。
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