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ロマンの定義

 鍵を回すような物音が微かに聞こえた。 「たっだいまー!」  勢いよく扉が開くのと同時に、まったく疲れを感じさせない明るい声が響く。  仕方ない、出迎えてやるか。篠宮はそう思って立ち上がった。  玄関では、例の『ダーリン』が靴を脱いで上がりかけているところだった。帰りに何か買い物でもしてきたのか、どこかの店のものらしいビニール袋を片手に提げている。 「よく平然と帰ってこられるな……」 「え、なんですか?」 「もういい……」  篠宮は肩を落とした。結城が帰ってきた途端、穏やかで静かだったはずの休日が、いきなり波乱の様相を呈してくる。 「へへー。お帰りのチュウー!」  いきなり篠宮を抱き締め、結城はくちびるにキスをした。着ているコートから、冷んやりとした冬の匂いが漂ってくる。明日から三月とはいえ、まだ外は寒いのだろう。 「ねえねえ篠宮さん、見てください! 駅ビルの中の雑貨屋さんで、可愛いのが売ってたんですよ。着てみてもらえませんか?」  結城が手にしたビニール袋から、折りたたんだ布のような物を取り出す。広げてみるとそれは、これでもかとばかりにフリルのついた白いエプロンだった。 「こんなもの着られるわけがないだろう……」 「えー。じゃあ、こっちは?」  結城は別のエプロンを取り出した。大きな百合の花模様がプリントされており、端が丸くカットされている。花柄ではあるが、フリルやリボンは付いておらず、色も落ち着いたクリーム色だ。 「まあ……これなら」  多少とはいえ家事をするにあたって、一枚くらいは必要かもしれない。そう思った篠宮は、結城からエプロンを受け取り、丈がどの程度か確認してみた。 「ねえねえ。服は脱いでよ」  結城が突然わけの解らないことを言い出した。 「は?」  篠宮が怪訝な顔をしていると、結城は急に目尻を下げて微笑んだ。 「服脱いでエプロンだけ着るんですよー。やっぱ男のロマンでしょ! 若奥様の裸エプロン」  結城が笑顔で言い放つ。篠宮はエプロンを握った手をわなわなと震わせた。 「君のロマンの定義はどうなってるんだ! そんな恥ずかしい格好ができるか、馬鹿!」 「えー、これはもうお約束でしょ?」 「知るか!」 「どうしても嫌なんですか? じゃあ……分かりました。服は着ててもいいから。エプロンつけて、台所に立ってる篠宮さんにチューさせて? ね? ね?」  篠宮の胸にエプロンを当て、結城は背中で素早く紐を結んだ。そのまま腰を抱きながら、篠宮の身体を流し台のほうに押しやる。仕事から帰ってきた夫が、台所に立つ若奥様にちょっかいを出す、というシチュエーションらしい。  まあ裸エプロンでなければ良いか。そう思いかけ、篠宮は慌てて考え直した。さっきから微妙な二択だけ与えられ、都合のいいように誘導されているような気がする。 「篠宮さんのエプロン姿、可愛い……めちゃめちゃ可愛いです」  可愛い可愛いと繰り返し呟く声が、背後から聞こえる。  篠宮はくちびるを噛み締めた。こっちは二十代半ばの男なのだ。可愛いなどと言われてもまったく嬉しくない。それでも、甘い声で囁かれ耳の後ろにキスをされると、身体は敏感に反応して熱を持ち始めた。  篠宮の体温が上がったのを感じ取ったのだろうか。結城の手が、静かに篠宮のベルトに掛かった。 「待て……キスだけじゃないのか」 「もうここまで来たらいいじゃん。しよ?」  ムードも何もない口調で言いながら、結城が衣服を引き下ろしていく。硬くなった篠宮の前の部分が、エプロンの布を大きく持ち上げた。 「もう感じてるんだ? 待って……今、もっと気持ちよくしてあげるから」  結城が、仕事用の鞄からローションのボトルを取り出した。 「なんで鞄の中にそんな物が入ってるんだ」 「雑貨屋さんの隣が薬局だったんですよ。これはもう、神様が俺のために用意してくれたんだろうと思って。すぐさま買ってきました」 「どんな神様だ……最低な奴だな」  皮肉を込めて言ってみるが、結城は意にも介さない。 「あっ……」  後ろにいきなりローションが塗り込められた。 「待て結城。もうちょっと、そこに至るまでの雰囲気というか、段階というものが……」 「うーん。篠宮さんのここは、そう言ってないけど?」 「うっ……!」  流しの縁に手をついて、篠宮は息をついた。いくら言葉で拒否してみても、硬く勃ち上がった前の部分が、内心の熱い昂りをはっきりと伝えている。こういう時、男は不便だと篠宮は思った。身体が嘘をつけない。 「柔らかくなってきたね。いいよ……すごく気持ち良さそうだ」  何もかも知り尽くした結城の指が、一本、また一本と入り込んでくる。それが済むと、ぬかるんだ場所にひときわ太いものが当てられる感覚があった。 「この体位初めてだよね?」  短く問いかけ、結城はゆっくりと腰を進めてきた。 「いや、あ、あっ……!」  最奥の粘膜が、早くも彼を求めて熱くうねりだす。もどかしい思いで、篠宮は自分から腰を突き出した。いつもは、いちばん太い部分が通過する時に少しだけ痛みがあるが、今日はそれを感じない。角度が違うからなのだろうか。

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