89 / 396

夜の攻防戦

「それと。何かしておくことはないか。することがなくて暇すぎる」 『そうだなあ……じゃあ、晩ご飯の買い物しておいてもらえますか?』 「買い物か……何を買うかリストアップしてもらえれば、君が帰るまでに済ませておくが」 『なんでもいいですよ。魚か肉メインにして、あとはじゃがいもとかほうれん草とか、眼に付いたもの買っといてもらえればいいです。俺、材料見て適当に作るから』  結城の言葉を聞き、篠宮は若干のコンプレックスを感じた。材料を見て、適当に作る……それを難なくこなす者にしか言えない台詞だ。 『あ、そろそろ仕事に戻る時間です。聞いてくださいよ篠宮さん。午前中にシトリナジャパンさんを訪問して、例の件をお話ししたんです。そしたら、とりあえず五千ケース仕入れて、前向きに検討するって言ってもらえたんですよ! じゃあまた後でね。愛してます!」  最後の最後に、ついでのように仕事の話を付け加えて、結城が電話を切る。篠宮は携帯電話を持ったまま呆然とした。上司に電話をしたら、普通はそちらの話題が先になるものではないか。  相変わらず自分勝手な奴だ。そう思いながらテーブルに電話を置いた篠宮は、先ほどまで曇っていたはずの自分の心が、すっかり晴れていることに気がついた。  とりあえず文句を言って気分がすっきりしたからだろうか。明日からはきちんと起こすと、確約をもらって安心したからだろうか。いや、それだけではないだろう。それだけでは、胸の底からじわじわと湧き上がってくる、この温かく満たされるような感情の説明がつかない。  ……もしかして。しばらく考えてから、篠宮はその理由に思い当たった。  いや……そんなはずはない。頭に浮かんだ考えを、篠宮は慌てて否定した。  自分は男なのだ。来月早々には二十六歳になるし、身長も百八十以上ある。会社でもそれなりに評価され、仕事を任されている。その自分がそんなふうに、恋を知り始めた少女のような心理状態に陥るなど、有り得ない。  そうかもしれない。いや、そんなはずはない。揺れる心を振り子のように行ったり来たりさせた末、篠宮はようやく自分の素直な気持ちを認めた。  ……認めたくないが、認めるしかない。午前中の間、自分の気持ちがあんなにも苛々と、もやもやと、鬱々としていたのは。単に、彼の『おはよう』を聞けなかったからなのだ。   その日も、結城は仕事が終わると矢のような勢いで帰ってきた。  篠宮が買ってきた食材を見ながら、フライパンやざるを手早く用意していく。四十分後に出てきた料理は、どれも美味だった。しかも篠宮が待っている間、お腹が空くといけないからと、軽いつまみにビールを用意してくれる至れり尽くせりぶりだ。  エプロン姿も板についているし、結城のほうがよほどお嫁さんに向いている。そう篠宮は思った。だが、結城が可愛い新妻に見えたのはその辺りまでだった。食事を終えて休憩し、風呂から上がる頃になると、最近恒例になりつつある夜の攻防戦が始まったのだ。 「ね、篠宮さん。今日……いいでしょ?」  バスローブを羽織って寝室に来ると、結城はさっそく篠宮の腰に腕を回した。 「久しぶりみたいに言うな。昨日もしただろう」 「昨日は台所だったじゃないですかー。じゃあ言い直します。ね、篠宮さん。今日はベッドでしよう? いいでしょ?」  甘えた声で言いながら結城が腰を擦りつけてくる。硬くなった何かを骨盤の辺りに押し付けられ、篠宮は困り果てながら結城のほうをちらちらと見た。結城の両脚の間のものは、すでに臨戦態勢になっている。 「どうして君はその……毎日、そんなに元気なんだ」 「だって篠宮さん、生牡蠣に鮭の切り身、生姜に山芋にオクラなんか買ってくるんだもん! これはもう『今夜はいっぱい可愛がってね』って合図でしょ?」 「いやその……そういうつもりではなかったんだが……」  自分には買い物の才能がないのかと、篠宮は激しく落胆した。結城の指示どおり、適当に眼についた物を買ってきたつもりなのだが……後から知ったところによると、自分の買ってきた物は、精力増強で有名な食材ばかりだったらしい。 「またまたー。俺にあんなんばっか食べさせといて、嫌だとは言わせませんよ」  肩を押さえてのしかかるようにしながら、結城が篠宮をベッドの縁に腰かけさせる。篠宮は顔を赤らめて黙りこんだ。結果的にそういう物ばかりになってしまったことについては、別に他意はない。以前どこかで食事をした時に、結城が喜んで食べていたから、好きな食材なのだろうと思っただけだ。本当に、それだけなのだ。 「ね……いいよね、篠宮さん? 明日はちゃんと起こしてあげるから」  結城が耳許にキスをしてくる。篠宮は余計に身を固くした。もう何度も肌を重ねているのに、こうして身体を求められると、いまだに羞恥が先に立ってしまう。 「篠宮さん、ねえ……もう、したくてたまんないよ。させてください、お願いします!」  篠宮がなかなか応じようとしないのを見ると、結城はいきなり床に座りこんで土下座した。

ともだちにシェアしよう!