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信じてる
風呂から上がると、篠宮は意図的に寝室を避け、ソファーのある居間へと戻った。
寝室に行くと、どうしてもそういう雰囲気になってしまう。今夜はやめてほしいとはっきり言うつもりではあるが、結城が例の土下座攻撃をしてきたら、断りきれる自信はない。
「ねえねえ篠宮さん。ベッド行こうよ。それとも、まだテレビ観るの?」
シャワーを浴びてきたらしい結城が、小脇にクッションを抱えてやってきた。
それを見て、篠宮は赤面しながら眼をそらした。ベッドで向かい合って愛を囁くとき、結城はいつもこのクッションを篠宮の腰の下に入れている。そのほうが無理に背中を曲げたりせず、楽に身体を重ねられるからだ。
食材を野菜中心にしてみたものの、効果は今ひとつだったらしい。今夜もやる気満々といったところだろう。篠宮は抑えた声で言い放った。
「君がベッドで寝てくれ。私はこのソファーで寝る」
「ええーっ! なんでなんでなんで?」
結城が悲鳴を上げた。寝耳に水といった表情だ。
……いくらなんでも唐突すぎただろうか。反省した篠宮は、少しだけ譲歩した。
「隣で寝るだけで何もしないと約束するなら、ベッドに行ってもいいが……」
「えー、無理です。一緒に料理作って、映画観てお風呂に入ったら、その後はベッドで仲良く……っていう流れじゃないですか、普通?」
「やめてくれ。そんなに毎日のようにされたんじゃ、身が保たない。とにかく、今日という今日は絶対に駄目だ」
「身が保たないって……よく言うよ。篠宮さんだってノリノリだったじゃないですか」
「くっ……!」
篠宮は言葉に詰まった。たしかに、あれほど甘い声を上げておきながら、今さら嫌だったなどと言っても説得力がない。
「とにかく私は、今日はソファで寝る。だいたい、君はいつも一人で寝てるはずじゃないか。毎日しないと駄目だなんて、そんなことあるわけないだろう。それとも、他の誰かと寝てるのか?」
「それこそ、そんなことあるわけないでしょ? 他の奴と寝るなんて、考えただけでも気持ち悪いですよ。篠宮さん、俺の愛を疑ってるの?」
結城がめずらしく怒った顔を見せる。言いすぎたか、と篠宮は後悔した。
「君を疑っているわけじゃない。君の気持ちは……信じてる」
「そんな言いかたは狡いよ。愛してるとか口にしておきながら、篠宮さんの身体も気遣えない俺は、子供だって言いたいんですか? それじゃ、俺がただ我がまま言ってるだけみたいじゃん……!」
泣きそうな顔で、結城がくちびるを噛み締める。彼の願いを聞き入れてしまいたいという気持ちを、篠宮は心を鬼にして必死に抑えこんだ。ここは結城に折れてもらわなければならない。どちらが一方だけが我慢しなければいけないような関係は、いつか必ず限界が訪れる。
しばらく見つめ合った後、結城は溜め息をついてがっくりと肩を落とした。
「そうですよね……我がままですよね。解りました。今日は一人で寝ます。篠宮さんはベッドで寝てください。俺、ソファーでいいから」
「そういうわけにはいかない。私はただの居候なんだ。君を差し置いてベッドを占領するわけにはいかない。しかも、君は明日も仕事だろう。ソファーで寝たせいで、朝起きて節々が痛むようでは困る」
「ほんと強情なんだから……篠宮さんの意地っ張り」
小声で文句を言いながら、結城はクッションを持ってすごすごと部屋から出ていった。隣の寝室から持ってきたのだろうか、少し経つと戻ってきて、ソファーの上に薄手の掛け布団をどんと置く。
「はい、毛布。お休みなさい」
必要な物だけを渡して、結城は再び部屋から去っていった。声は暗く、篠宮の顔を見ようともしない。
思わず呼び止めそうになって、篠宮は慌てて口をつぐんだ。ここで情にほだされるからいけないのだ。キスすれば肌に触れたくなるし、肌に触れたら、その先は歯止めが利かなくなる。
なぜこんなにも自分のほうにだけ負担がかかっているのか、篠宮は考えてみた。本来異物を受け入れる場所ではないのだから、当然といえば当然なのかもしれない。だが、結城は決して無茶なことはしないし、篠宮の身体の準備が整うまでいつも辛抱強く慣らしてくれている。微かな疼痛はあっても、裂けるような痛みを覚えたことなど一度もない。初めてのあの時でさえ、結城は念入りに用意をして、篠宮が苦痛を感じないようにしてくれた。
たぶん結城と自分では、得ている快感の量と質が圧倒的に違うのだ。考えた末、篠宮はそう結論を出した。
普通、男がそういう行為で得る快楽というものは、昇りつめた瞬間に終わってしまう。だが、受け取る側の快感はそこでは終わらない。恋人の身体の一部を受け入れ、想いのたけを注ぎこまれ、それが沁み透って全身に広がっていく感覚。それは薄れることはあっても消えることなく、身体の内にずっと留まり続ける。翌日に感じる眠気や倦怠感は、あの気の遠くなるような快楽の代償なのだ。
電気を消すと、毛布から微かな芳香が漂ってくることに気がついた。紅茶と柑橘類と、何かのスパイスが混じり合った絶妙な香り。結城がいつもつけている香水の匂いだ。
まぶたが重くなるのを感じて、篠宮は静かに眼を閉じた。
きょう観た映画の場面が、断片的に浮かんでくる。どこまでも続く緑の草原。暗い洞窟の中でひっそりと輝くヒカリゴケ。竜の背に乗って空を駆け巡る少年。蒼ざめた顔と真っ白なドレスの中で、胸に着けた宝石だけがやけに紅い、夢のように美しい氷の女王。
遠くで風の鳴る音が聞こえる。甘くさわやかなシトラスの香りに包まれ、篠宮はいつのまにか眠りについていた。
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