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眠れなくて

 閉じたカーテンの向こうから、微かに鳥の鳴き声が聞こえる。  水の底をたゆたっていた意識が、頭上に光を感じてゆっくりと浮上していく。朝だ。もう、起きなければいけない時間だ。そんな呼びかけが何処からともなく聞こえ、透明な泡がぶつかりあうような感覚とともに、頭の中が徐々に覚醒していく。  篠宮は眼を開けた。  窓の外がほんのりと明るくなっている。完全に日が昇るまでには、まだしばらくかかるだろう。  時計を見ると、あと少しで六時になるところだった。いつもの起床時間と同じだ。 「ん……」  篠宮は身体を起こした。その弾みで、ソファーから毛布が半分ほどずり落ちる。膝の辺りに僅かな痛みを感じるのは、脚を曲げて寝ていたためだろう。  ニュースでも見ようか。そう思ってテレビのリモコンを持ってから、篠宮は考え直して手を止めた。あまり騒々しくしては、隣の部屋にいる結城が起きてしまうかもしれない。会社へ向かう時間までにはまだ間がある。もう少し寝かせておいてやろう。  足音を忍ばせながら居間を出て、洗面所へ向かう。ひととおり身なりを整えると、篠宮は再び居間へ戻った。ソファーに深く腰掛けて、読みかけの本を開く。主人公の青年が、父の形見の時計をきっかけに、様々な事件に巻き込まれていくという推理小説だ。  主人公が汽車に揺られながらサンドイッチを食べている場面で、篠宮はページをめくる手を止めた。  時計の針が七時を指している。篠宮は僅かに空腹を感じた。そういえばここのところ、寝坊続きだったり食欲がなかったりで朝食を抜いていることが多い。せっかくまともな時間に起きたのだから、今朝は自分で用意しよう。そう思った篠宮は、立ち上がって台所へ向かった。  食パンをトースターに入れ、食器棚からマグカップを取り出す。たまには紅茶にしてみるかと考えたところで、寝室のドアが静かに開く音がした。 「あー、篠宮さん。おはようございます……」  パジャマ姿の結城が顔を出す。パジャマなど持っていたのかと、篠宮は内心驚いた。結城の寝る前の姿といえば、いつも裸か、せいぜいバスローブを羽織っているくらいのイメージしかない。そのバスローブも、篠宮にじゃれつく間にだんだんと脱げて、十分もしないうちに床に放り投げられている有様だ。 「……済まない、起こしたか」 「いえ……なんか、あんまりよく眠れなくて」   結城は疲れきった声で呟いた。眼の下には青黒い隈ができている。 「隣の部屋に篠宮さんが居るって判ってるのに、ゆっくり寝てなんていられないですよ。もう、うとうとするたびに、ろくでもない夢で眼が覚めて……何度も起きちゃいました」  重苦しい溜め息をつく結城の顔色は、昨日の朝とはまるで別人のようだ。この感じだと、寝ていたとしても二、三時間だろう。 「大丈夫か……? 今日は休んだらどうだ」 「恋人がエッチさせてくれなかったから休みますなんて、いくらなんでもカッコ悪すぎますよ……そんな情けないこと言ってたら、篠宮さんに捨てられちゃいます」  ひとかけらのパンをコーヒーで流し込み、身支度を済ませると、結城は玄関へ向かった。 「具合が悪くなったら、すぐに帰ってくるんだぞ」 「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。篠宮さんも、いい子にしててくださいね」  力なく微笑み、結城はぽんぽんと篠宮の頭を撫でた。 「……行ってきます」  眼の前で、玄関の扉が音を立てて閉まった。  ◇◇◇  夕方になった。  落ち着かない気持ちで、篠宮は携帯電話を持ったまま、そわそわと部屋の中を歩き回った。  まるで檻の中の動物のようだ。自分でもそう感じてソファーに座ってみるが、数分も経たないうちにまた立ち上がってしまう。  おとなしく静かに連絡を待つ。ただそれだけの事が、こんなに難しいとは思っていなかった。  手元の画面を見て、篠宮は時刻を確認した。定時はすでに過ぎている。  こちらから連絡してみようか。そう思った瞬間、着信音が鳴る。篠宮は焦って通話ボタンを押した。 『あ……篠宮さん。今から帰ります』  電話の向こうから、結城の声が聞こえた。篠宮は安堵した。朝よりは多少元気そうだ。 「体調はどうだ」 『まだ心配してたの? 大丈夫だよ、ただの寝不足なんだから。コーヒー飲んで、なんとか乗り切りました』  微かな笑い声が聞こえる。とはいえ、帰って夕食の支度をするほどの気力はないだろう。篠宮はくちびるを噛み締めた。結城のように器用に作れない自分がもどかしい。 「夕飯だが……今日はどこか、外で食べないか」 『ああ、はい……別にいいですけど』 「駅まで迎えに行く。帰る途中のどこかで食べていこう。家に着いたら、すぐ風呂に入って寝たほうがいい」 『大丈夫だって言ってるのに。ほんと心配性だなあ。でも、迎えに来てくれるのは嬉しいです……ありがと』  やはり疲れているのだろう。結城は小さな声で礼を言った。  電話を切り、篠宮は風呂の準備をして家を出た。迎えに行くといっても、結城のマンションから最寄りの駅までは十分もかからない。改札を出たところでしばらく待っていると、階段の向こうに結城の姿が見えてきた。

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