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太陽と花の香り

 洗濯物をたたんで引き出しに入れ終わると、篠宮はベッドに腰掛けて大きく息をついた。  カーテンの隙間から外を見る。外はもう暗い。時刻は十九時半を過ぎたところだ。結城は残業だと言っていたから、たぶんまだ帰ってこないだろう。  なにか食べる物を買いに行かなければ。そうは思ったが、立ち上がってコートを着るのも億劫に感じる。それほど空腹でもないし、後で気が向いたらにしよう。どうせ一人なのだから、焦って買いに行く理由などない。  こうして家で結城の帰りを待つのも、今日が最後か。結城と電話で話した時に浮かんだ考えが、再び頭をよぎる。  過ぎていく時間を惜しみながら、篠宮はベッドに横たわった。綺麗に整えたシーツが少したわむ。枕に顔を埋めると、胸をくすぐる香りが微かに漂ってきた。結城がいつも使っている、シャンプーと香水の混じった匂いだ。  柑橘類とスパイスが絶妙にブレンドされた、名香と呼ばれる香り。時間が経っているせいか、官能的なムスクの匂いだけが余韻を引くように甘く残っていた。  結城は場面によっていくつかの香水を使い分けている。これは、いつも風呂上がりにつけている香水……篠宮にとって、いちばん馴染みのある香りだった。  一晩中可愛がってあげるから。昼間聞いた結城の言葉が、内に秘めた情欲を妖しく揺り動かす。 「結城……」  くちびるが、微かにその名を形づくった。  この部屋で、初めて自分から彼を求め、その腕に抱かれた事を思い出す。愛していると飽きもせず言い続ける彼に、心が傾き始めたのはいつからだったのだろう。恋人になるという約束を半ば強引に取り付けられ、夜を共にするうちに、今ではもう彼が居ない生活など考えられなくなってしまった。  指を伸ばし、篠宮は自分の口許をそっと撫でた。  幾度となく繰り返された口接けの記憶が、体温を伴って鮮やかに甦る。眼を閉じて、篠宮は寄せては返すその優しい波に、静かに身を任せていった。  夢を見ていたように思う。  気がつくと、自分はどこかの屋敷の一室にいた。  いや……『閉じこめられていた』と言うべきかもしれない。その部屋には扉も窓も、通気口さえもなかった。  照明らしき物は見当たらないのに、不思議と周りは白々と明るい。黒檀のテーブルに、古びた本棚。ゴブラン織の布を張った豪奢なソファーに、金縁の大きな絵皿。得体の知れない光が、それらを影もなく照らしていた。 『……ねえ』  不意に、どこからか声が聞こえた。聞き覚えのある、若い男の声だ。いつ聞いたのかは思い出せない。 『どこ?』  居場所を尋ねる自分の声が響く。変声期前の、少年の声だ。  ああ、自分は少年なのか。離れた場所で眠っている意識が、この夢はそういう設定なのだということをなんとなく理解する。 『ねえ』  再び声がした。辺りを見回しても、誰もいない。彫刻の施された猫足のピアノや、精巧なガラス細工の入った飾り棚が見えるだけだ。 『見て。こっちだよ』  こんこんとガラス戸を叩く音がする。振り向いた先に、大きな窓があった。さらにその向こうには、白いシャツを着た青年が立っている。  こんな所に窓などあっただろうか。最初に周りを見渡した時には、どう見ても無かったはずだ。そんな事を考えながら、一歩、また一歩と窓際へ近づいていく。  青年は人懐っこい笑みを浮かべて、親しげにこちらを見ていた。少し茶色がかった、長めの前髪が頬にかかっている。なぜか警戒心は起こらなかった。自分は、彼を知っている。とてもよく知っている。そんな気がした。 『ね、開けて? 一緒に外に行こうよ。いちご取りに行く? それとも、ボートに乗る? 丘の上に登ってみようか?』  屈託のない明るい笑顔と共に、彼はそう語りかけてきた。彼が提案する数々のことは、どれも魅力的で、興味がないといえば嘘になった。 『でも……開けられない』  窓の前に佇んだまま、自分は短く答えを返した。  黒く冷たい鉄格子のような窓枠を、指先でそっと撫でる。古めかしいアーチ型の窓は、嵌め殺しになっていて開けることはできない。ここは部屋ではない。牢獄なのだ。その事実が、急に現実味をもって胸に迫ってきた。 『なんで? 鍵を外せばいいだけでしょ?』  なんでもない、いとも簡単な事であるように彼はそう言った。 『鍵?』 『これだよ』  彼が窓の真ん中を指さす。そこにはたしかに、さっきまでなかったはずの鍵がついていた。 『え……?』  こんな鍵がいつ出来たのか。そう思いながらも、深くは考えず、大した疑問も抱かない。夢とはそういうものなのかもしれない。  言われるまま鍵の取っ手に指をかけ、窓を開ける。太陽と花の香りを含んだ風が、唐突に流れこんできた。 『ね、気持ちいいでしょ? 一緒に行こう』  暖かい陽射しと、湿った土と草いきれの匂い。初夏の匂いだ。 『ほら。おいで……篠宮さん』  笑いながら手を差し伸べ、彼が自分を緑の芝生の上へ来るよう誘う。その手をつかんで窓枠にのぼり、恐る恐る地面に足を伸ばした。 『篠宮さん』  不意に、誰かに肩を揺さぶられた。 『篠宮さん?』

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