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プロポーズさせて
「月が綺麗だよ」
「ぶっ」
予想もしていなかった台詞を耳にして、篠宮は飲んでいた茶を吹き出しそうになった。
「え? 俺、なんか変なこと言った?」
結城は眼を丸くして、きょとんとした顔でこちらを見ている。どうにも抑えきれず、篠宮は声をあげて笑った。
「いや。いきなり『月が綺麗』だなんて……君がそんな奥ゆかしい愛の言葉を口にするなんて、意外だな」
「もうっ……違うって。アイラブユーの意訳じゃないよ。本当に、月が綺麗だったから。ほら……篠宮さんもこっち来て。一緒に見ようよ」
不満そうに口をとがらせながら、結城は篠宮に手を差し伸べた。
仕方ないな。そう思いながら、立ち上がって結城の隣まで歩み寄る。結城が空を指差した。
「……ほらね。綺麗でしょ?」
顔を上げ、篠宮は促されるままに夜空を見つめた。花曇りにはまだ早い、冷たく澄んだ空に、大きな満月が輝いている。
「篠宮さん。一週間、俺の我がまま聞いてくれて……ありがと」
「なんだ……? 急に改まって」
「毎晩、一緒にごはん食べたり、映画観たり……怒られたりもしたけど、楽しかった。これからは、なるべく怒られないように頑張ります。仕事の時も、二人でいる時も」
結城は顔を上げた。冴え冴えと輝く月の光が、その整った横顔を照らした。
「篠宮さんとこんな風に一緒に過ごせるなんて、俺、本当に幸せ者です。なんかそう考えたら、あの月って……今の俺の気持ちみたいだなと思って。そう思って、ずっと見てたんです」
「ふっ」
今の俺の気持ちみたい。その無邪気な例えを聞いて、篠宮は手で口を押さえた。奥歯を噛み締めて笑いをこらえるが、どうしても我慢しきれずに声が漏れてしまう。
「もう。なんでそこで笑うんですか? 篠宮さんの笑いのツボがよく分かんないよ」
「いや、どうも……君がロマンチックな事を言いだすと、可笑しくてたまらない」
「ひどいよ篠宮さん。直球で誘えばムードがないって怒るし、ロマンチックなこと言ったら笑うし……俺、どうすればいいんですか」
「それだ。その笑いながら拗ねてる顔が、いちばん君らしい」
「もうっ」
子供のような膨れっ面を見せた結城は、次の瞬間、幸せそうに頬を緩ませた。
「でも……へへ。篠宮さんの全開の笑顔って、初めて見た」
「……そうか?」
言いながら、篠宮は再び空を見上げた。こんなに笑ったのはいつ以来だろうか。生まれて初めてのような気さえした。結城と恋人同士になってから、何もかもが初めてのように思えて、心が追いつかずにいる。
「君の気持ちだかなんだか知らないが、月には例えないほうがいい。満月になったら、後は欠けていくだけだぞ」
「はいはい。そうですね、ジュリエット。俺と篠宮さんの愛が、あんな風に変わっちゃったら大変です」
からかうようにそう言うと、結城は眼を細めて微笑んだ。乾きかけた髪の一本一本が月の光を宿して、ほんのりと輝いている。
「でも。篠宮さんと一緒にいられて幸せなのは、本当です。俺、これからもずっと篠宮さんのそばに居たい。だから……受け取ってほしいものがあるんです」
唐突に告げ、結城は窓の前に左手をかざした。
薬指に指輪がふたつ嵌まっている。銀色の輪に波のような模様が入った、揃いの指輪だ。一つは指の根元。もう一つは第二関節の上で留まっている。
「篠宮さん。俺と結婚してください」
指輪をひとつ外し、結城はそっと篠宮の手を取った。
「……またか。何回プロポーズする気だ」
口ではそう言いながらも、篠宮はその手を払いのけることができなかった。鼓動が速くなり、触れた指先が熱くなってくる。抵抗する間もないまま、流れるように指輪は滑り、篠宮の薬指の付け根でぴたりと止まった。
「何回でもプロポーズさせて。篠宮さんと二人でいられたら、俺にとってそれ以上の幸せはないよ。俺には篠宮さんしかいない。ずっとずっと、俺の一生をかけて……篠宮さんだけを愛するって、誓うから。だから、俺と結婚してください」
「どうして君は、そんな恥ずかしい台詞を平気で」
篠宮が言おうとした言葉は、最後まで続けることができなかった。
「んっ……!」
重ねられたくちびるの熱さに、気が遠くなる。強いて顔を逸らし、篠宮は必死で窓辺に手を伸ばした。いくらここが四階とはいえ、遮るものが何もない状態では、他のマンションから丸見えだ。
「結城……カーテンを」
「いいよ、見られたって」
背中に腕をまわし、結城が篠宮の身体を抱き締める。なおも抗おうとして、篠宮は胸の中で身をよじった。
「そういう訳にはいかないだろう……そんな事ばかり言っていると、怒るぞ。怒られないように努力するんじゃなかったのか」
「俺の欲望がそれを上回る時は、別です」
甘い声で囁いて、結城は篠宮の耳許にそっと口接けた。
「ね……篠宮さん。俺のこと好きって言って。結婚してもいいって、言ってください」
「あ……」
それ以上なにも言えず、篠宮は静かに眼を伏せた。耳許にキスを繰り返されるたび、身体の力が抜けていく。ふらふらと頼りなく脚が揺れ始め、立っていられないほどになった。
「ベッドの上じゃないと言ってくれないの?」
微笑みながら、結城が小首を傾げて尋ねてくる。篠宮にできるのは、ただ黙ってうなずくことだけだった。
「ね……ベッドに行こう」
月明かりを受け、二つの指輪が寄り添いながら微かにきらめく。片手で篠宮を抱いたまま右腕を伸ばし、結城はやや性急な仕草でカーテンを閉めた。
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