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【春の花咲く頃】

「皆さーん。今日のお昼、みんなでお花見しませんか?」  朝の八時五十五分。あと五分で始業時間となったところで、若い女性の声が高らかに響き渡った。  篠宮は顔を上げた。隣の部署の女性社員たちが、なにやら営業部の入り口に集まっている。周りを見渡すと、席についていた幾人かが同じように、何事かとそちらに眼を向ける姿があった。 「え、何? お花見って?」  後輩の佐々木が、立ち上がって声をかけた。彼はこの営業部の中では、いわゆるお祭り騒ぎが好きな部類に入る。女性たちの『花見』という言葉に、面白そうな匂いを感じ取ったのだろう。 「今日ね。そこの桜の……」  春らしいピンクのシャツを着た女性が、説明のために口を開く。そんな女性たちの間をくぐるように、長身の姿が見えたのはその時だった。 「おはようございまーす。あれ、どしたの? 朝からみんなで集まって」  時刻は八時五十七分だというのに、まったく焦った様子のない部下の顔を見て、篠宮は頭を抱えた。相変わらず始業時間ぎりぎりだ。  だが、女性たちはそんなことを気にした様子もない。いかにも女好きのしそうな、彼の甘い顔立ちを見ると、満面に笑みを浮かべて愛想良く話しかけた。 「あ、結城さん! 結城さんも聞いてください。今、会社の庭の桜がすごく綺麗じゃないですか。お昼休みの間に、みんなでお花見しません? お弁当の人は、お弁当持って。私たち、シート敷いて用意しときますから」 「へえー。いいんじゃない? 天気もいいし」  結城の返事を聞きながら、篠宮は窓の外を見た。会社の庭にある並木の真ん中あたりで、濃淡とりまぜた何本かの桜が満開になっている。すぐ表には道路が通っているものの、高い生垣で囲われていて外からは見えない。あの花影の下で昼食をとったら、ちょっとしたピクニック気分が味わえるだろう。 「ですよねー? まあ急な話なんで、自由参加って感じになっちゃいますけど……みんなの予定調整してるうちに、桜なんて散っちゃいますもん。上の人に訊いたら、馬鹿騒ぎして近所迷惑にならなければ別にいいよっていう話だったし。お茶とジュースは、常務以下数名がポケットマネーで用意してくださるそうですよ」  お茶とジュースは無料と聞いて、佐々木が身を乗り出した。 「いいじゃんいいじゃん! やろうよお花見。俺、シート敷くの手伝うからさ。山口、おまえもやるよな?」 「なんで俺もなんだよ……勝手に要員に入れるなよ」  いきなり声をかけられ、山口が不平を漏らす。とはいえ、本気で怒っているわけではないということは、微かに笑う口許を見れば伝わってくる。同期である佐々木とは、小学校からの腐れ縁という話だ。 「山口ぃ。おまえなー、そうやってなんでも面倒くさがるから、春が来ないんだよ」 「うるせーな、余計なお世話だよ……でもまあ、たまには外で昼飯食うのもいいかもしれないな。分かったよ。とりあえずシート敷きゃあいいだけだろ。佐々木、おまえ倉庫からシート出してこい。俺が敷くから」 「うわあ、ありがとうございます! 佐々木さんと山口さん、頼りになるう!」  女性たちが、いっせいに手を合わせて歓声を上げる。かなりわざとらしいが、佐々木と山口は満更でもない様子だ。 「そうそう。飲み物なんですけど。ジュースとお茶だけじゃ、やっぱりちょっと物足りないじゃないですか。で、多田営業部長に相談してみたんです。そしたら『金は俺が出すよ』って男気たっぷりに言ってくれて。うふふ……なんと、この二種類を三ダースずつ買ってくれました!」  ボブカットに眼鏡をかけた女性が、後ろ手に持っていた二本の缶をみんなの前に差し出した。レモンのチューハイとビールのようだ。  篠宮は眼を凝らした。どこかで見たようなデザインの缶だが、どこで眼にしたのかは思い出せない。 「お昼までに、ばっちり冷やしときますから。後で部長にお礼言っといてくださいね!」  花見の席を盛り上げるため、進んで飲み物を提供する。宴会好きな部長のことだ。二つ返事で承諾したに違いない。  見た目はいかにも中年親父といった風体の多田営業部長だが、気前がいいためか、女性社員からは比較的好意的な眼で見られている。聞くところによるとクラブやスナックでも、他の男性を差し置いて女性から話しかけられることが多く、かなりもてる部類に入るという話だ。 「しかし……勤務時間にアルコールはまずいだろう」  篠宮はぼそりと呟いた。その声を聞きつけたのか、両手に缶を持っていた女性が不思議そうな顔で首を傾げる。 「え……? あ、そうか。篠宮主任って、こういうのあんまり飲まないんでしたっけ。ダメですよー。課は違うかもしれないけど、一応うちの商品なんですから。ちゃんと頭に入れといてくださいね。ふふ」  そう言うと、彼女は指の位置をずらし、缶に印刷されている表示が良く見えるように持ち直した。 「じゃじゃん!」  テレビの通販番組のような掛け声と共に、二本の缶が前にせり出してくる。今度は篠宮にもはっきりと見えた。缶の一番下、アルコール度数の表示の部分に、ゼロパーセントの文字がある。

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