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君しか居ない
「あ、ガードナー部長補佐! お久しぶりです」
「エリック、でいいよ。仕事が目白押しなせいで、なかなかレディたちと顔を合わせる暇もなかったけど……相変わらず、みんな綺麗だね。桜の精のように美しいよ」
緑の瞳をきらめかせ、エリックは臆面もなく言い切った。歯の浮くような台詞も、なぜか彼の口から出ると不自然ではない。よほど言い慣れているのだろう。
「いやん、そこまで褒められたら照れちゃいます……って、結城さん。なんでそんなしかめっ面になってるの?」
その一言で、みんなが一斉に結城の顔を見つめる。結城は眉間にしわを寄せて、これ以上ないというほど苦りきった表情を見せていた。整った顔が台無しだ。
「どうもこうも無いです。こいつ、篠宮さんに気があるんですよ!」
「ええ! そうなんですか、エリックさん?」
女性たちが驚きの声を上げる。度重なる結城の問題発言に、篠宮は頭を抱えた。一体こいつは、どこまで騒ぎを広げれば気が済むのだ。ここまで来ると、怒りを通り越して諦めの境地に達してくる。
「ああ。ぼくとミスター・シノミヤが、大学時代の知り合いだってことは話したよね? 親しく話をする機会はあまりなかったけれど、その時から密かに心惹かれていたんだ。物静かで、古風で……ぼくの国にはなかなか居ないタイプだよ。とても魅力的だと思うね。できることなら、恋人になってもらいたいよ」
違うと言ってくれると期待していたが、予想に反して、エリックはあっさりと結城の言葉を肯定した。いきなり知らされた男同士の三角関係に、女性陣から悲鳴のようなどよめきが巻き起こる。
「ちょっと篠宮主任! ひどいですよぉ。世界中のいい男、ぜんぶ持ってっちゃうつもりですか?」
「ほんとですよ! 結城さんといい、エリックさんといい……なんで私たちを差し置いて、そっちに行っちゃうんですか? ねぇ篠宮主任、ハイスペック男子を引き寄せるコツ、教えてくださいよ!」
「篠宮主任、なんでそんなにお肌白くてつるつるなんですか? なんか特別なお手入れとかしてます?」
「篠宮主任って、どんな女性がタイプなんですか? 実はわたし前から、篠宮主任のこと、すごく素敵だなって……」
「ちょっとミカ! 何どさくさに紛れて告ってんのよ!」
「そうだよ! 俺がいるところで篠宮さん口説くなんて、覚悟はできてるよね?」
「ほら、番犬くんもそう言ってるわよ」
篠宮は思わず後ずさった。全員が全員、口々に勝手なことを言いだして収集がつかない。
「済まない。用事を思い出した」
持ってきた昼食を手つかずのまま拾い上げ、慌ただしく席を立つ。失礼かもしれないという考えが頭をよぎったが、こんなに騒がしいのでは、ろくに食事を取ることもできない。
「あ、篠宮さん! 待ってよ」
篠宮が立ち上がったのを見ると、結城は迷わず追いかけてきた。会社のエントランスのところでようやく追いつくと、篠宮の顔を覗きこむようにしながら、すぐに隣に並ぶ。
「ね、篠宮さん。お昼ご飯は、いつもの休憩所で食べよ? 俺やっぱり、篠宮さんと二人がいい」
「まったく……花見に行きたいと言っていたのは君じゃないか」
「だって。桜の下で、篠宮さんがあんなに綺麗に見えるなんて思わなかったんだもん。女の子たちもみんな、篠宮さんに夢中で……そりゃ、気持ちは解るけどさ」
結城が泣きそうな顔で愚痴を言う。階段の踊り場まで来ると、篠宮は立ち止まって彼の眼を見た。
「みんなだなんて大袈裟だ。あんなの、ただの冗談に決まってる。それとも私が、あの中の誰かと浮気するとでも思ってるのか」
「篠宮さんが浮気するような人じゃないのは解ってるよ。でも浮気じゃなくて、本気はあるんじゃないかって心配なんだ。ねえ篠宮さん。大丈夫? あの中の誰かから真剣に告白されたら、心動いちゃったりしない? 元々、強引に迫ったのは俺のほうだし……」
「何を急に弱気になっているんだ」
「だって……」
結城は抑えた声で呟いた。眼許にうっすらと涙が浮かんでいる。
彼でも、こんなふうに不安に苛まれる時があるのだろうか。そう考えると、その不安を拭い去りたいという気持ちが、唐突に胸に湧き起こってきた。
篠宮は周りを見た。
そばに人の気配はない。遠くで話し声が聞こえるが、近づいてくればすぐに判る。リノリウムの階段は歩くたびに靴音を響かせ、よほどの忍び足で来ないかぎり、音を消すことは不可能だ。窓の外には配管が通り、視界はほぼ遮られている。
「……私には君しか居ない」
小さく囁き、篠宮は結城とくちびるを合わせた。
「篠宮さん……」
一瞬のキスが終わると、結城は呆然とした表情でそれだけ口にした。
「十分で食べないと間に合わないぞ」
これから食事に向かうらしい誰かの声が、少しずつ近づいてきている。何事もなかったように顔をそむけ、篠宮は先に立って階段を上り始めた。
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