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しっかりアピール
その日の夜。食事を終えた篠宮は、いつものように椅子に腰掛けてミステリー小説を読み耽っていた。
「篠宮さん。コーヒー、ここに置きますね」
洗い物を終えたらしい結城が、湯気の立つマグカップをテーブルに置く。
「ああ。ありがとう」
短く礼を言って、篠宮はカップに手を伸ばした。結城は篠宮の好みを熟知していて、インスタントでもドリップでも、篠宮にとって完璧なコーヒーを淹れてくれる。
温かいカップを鼻先に近づけながら、篠宮は横目でちらりと結城の姿を見た。この男は基本的に、何事にも器用なのだ。自分の部下にさえならなければ、仕事だって今よりもできていたに違いない。
そこまで考えてから、篠宮は思い直して深い溜め息をついた。そもそも自分が居なかったら、結城は今の会社に入っていなかったのだ。つまり、その仮定は意味を成さない。
「やっぱりいいなー、金曜日って。俺、週末だけが楽しみで仕事に行ってますよ」
篠宮が何を考えているかも知らず、結城は幸せそうな顔で身体を寄せてきた。
椅子に座ったまま、篠宮は慌てて両手でバランスをとった。手にしたカップが揺れ、コーヒーがこぼれそうになる。
「こら、まとわりつくな」
「だってー。篠宮さん、いい匂いするんだもん」
結城が背後から腕を回し、髪に顔を埋める。仕方なく読書を諦め、篠宮は持っていた本をテーブルに置いた。
「そんなわけないだろう。今日は陽射しが強かったから、だいぶ汗もかいたはずだ」
「昼間は暖かかったよね。桜も綺麗で、って……あーっ! そういえば! 写真撮るの忘れた!」
「写真?」
「そうですよ! 桜の下にいる篠宮さん、綺麗だったのに!」
「写真なんか撮っている場合じゃなかっただろう。君が訳の解らないことを言いだすから、冷や冷やしたぞ」
「え? 訳の解らないことって?」
結城は不思議そうな声を出した。自分の発言がどれだけ不適切だったか、まったく自覚がないらしい。篠宮は苦りきった顔で言い放った。
「私と両想いだとかなんだとか……」
「だって先にああ言っておかないと、他の奴が本気で篠宮さんを落としにかかってくるかもしれないじゃありませんか。俺と篠宮さんは両想いだって、周りのみんなに解るようにしっかりアピールしとかなきゃ。嘘じゃないでしょ? 両想いなんだもん」
結城が真面目くさった声で返事をする。篠宮は複雑な気持ちで肩を落とした。紆余曲折を経て想いが通じ合ったのは確かだが、こうあからさまに両想い両想いと連呼されると、それだけで穴があったら入りたい気分になってくる。
「本当ならいいというものではない。うちの会社は社内恋愛禁止なんだぞ」
「だって……やっと想いが通じて、篠宮さんが俺のこと好きだって言ってくれたんですよ? 自慢したくなる俺の気持ちも解ってくださいよ。自慢したついでに、篠宮さんに余計な虫が寄ってくるのを防止できたら、一石二鳥でしょ? 俺の恋人はこんなに可愛くて綺麗なんだよーって、世界中に放送したいくらいなんです。そうしないだけマシだと思ってくださいよ」
「思えるわけないだろう。何事にも節度というものがあるんだ。感情のまま周囲に言いふらした挙句、クビや左遷になって、そばに居られなくなってもいいのか」
「うーん。それは困ります……」
結城が低い声で唸った。困ってはいても、諦めてはいない様子だ。隙あらば惚気 たいという魂胆が見え見えである。
会社の各自のパソコンの中に、就業規則と社内規定というフォルダがあったことを、篠宮は急に思い出した。社内恋愛の罰則とは、具体的になんなのだろうか。今まで自分には関係のないことだと思って気にも留めていなかったが、結城とこういう関係になってしまった以上、よく確認しておかなければならない。しかも彼は社長の息子なのだ。社内で社長に会った時にどんな顔をすればよいのかと思うと、今から背すじが凍りつく。しみじみ考えてみると、本当に頭の痛いことばかりだ。
「まったく、そんな指輪までして……誰かに聞いてほしいと言わんばかりじゃないか」
「だって聞いてほしいんだからしょうがないです。ね、篠宮さん。篠宮さんの指輪はどこにあるんですか。せっかく買ったんだから、つけてくださいよ」
結城が甘えた声を出す。普通の人なら鬱陶しく思うに違いないこの言動を、どうして愛おしいと感じてしまうのか。そんな自分自身に呆れ返りながら、篠宮は頭を押さえた。仕方ない。俗に言う、あばたもえくぼという奴なのだろう。
「そんなにやかましく言わなくても、鞄の中に入っている」
傍らの鞄を引き寄せ、篠宮は内側のポケットに手を入れた。指輪とセットになっていたらしい小さな巾着袋を開けると、プラチナに金をあしらった指輪が姿を現す。
「そういえば今日、この指輪について、ハートがどうとか言っていたが……」
篠宮は昼間の花見の時のことを思い出した。たしか、ふたつの指輪を重ねるとハート型になるとか、そんな話だったように思う。
「え。ハートですよハート。気づいてなかったんですか?」
自分の指から指輪を引き抜き、結城は輪の部分を篠宮の持つ指輪と合わせてみせた。
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