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無言の合図
固く閉じた篠宮のくちびるを、結城の舌がぺろりと舐め上げる。
枕に頭を:埋(うず)め、篠宮は静かにその愛撫を受け入れた。温かく湿った舌でくちびるをそっと舐めるのは、今からディープキスをするという、結城からの無言の合図だ。
手足の力を抜き、篠宮は眼の前の恋人だけを見つめて素直に身を任せた。背中の下にある、さらさらとしたシーツの肌触りが心地よい。
「好き……好きだよ。篠宮さん」
濡れた舌先が、上下の合わせ目を丁寧になぞる。ほんの僅かほころんでくると、結城は角度を変えてついばむようなキスを落とした。
「篠宮さん……愛してる」
この上もなく甘い声で囁きながら、結城は右手で篠宮の髪を撫でた。もう片方の手で腰を抱いて身体を密着させ、くちびるを押し当てて舌を絡める。
髪を撫でていた指先をそっと下ろし、結城は篠宮の耳許に優しく触れた。爪で軽く引っかくように耳朶を刺激しつつ、抱き締める腕に力を入れて濃厚な口接けを繰り返す。
眼を閉じて、篠宮はされるがままに身を委ねた。柔軟な舌が歯列をたどり、頰の裏側をくすぐっていく。
キスに上手 いも下手 もないと結城は言うが、彼は間違いなく上手な部類に入るだろう。結城と出逢うまで、性的なことについてほとんど経験のなかった篠宮でも、そのくらいは推し量ることができた。
「んー……?」
結城が唐突に声を上げた。何かを疑問に思っているような響きだ。
「……どうしたんですか、篠宮さん」
首を傾げながら、結城が顔を離す。質問の意図が解らず、篠宮は怪訝な眼で結城を見上げた。
「どうって……」
「なんか……いつもと違う」
そう断定されて、篠宮は納得のいかない思いで眉をひそめた。いつもと違うなどと言われても、どこが違うのか、自分ではまったく見当がつかない。
今日は金曜日。会社の仲間の前では部下として扱っている結城を、恋人として受け入れる週末の夜だ。心の準備はできているし、特に身体の調子が悪いわけでもない。
「別に……普段と変わらないと思うが」
結城の勘違いではないだろうか。そう思った篠宮は、訝 しげな表情をしながらも冷静に言葉を返した。
「いえ。絶対に違いますよ。俺には判ります。いつもキスすると、うっとりして『もっとしてほしい』って眼で俺のこと見てるのに。今日はノリが悪いです」
その時のことを思い出したのか、結城が口許をゆがめて意味ありげな笑みを浮かべる。頰に血がのぼってくるのを感じながら、篠宮はことさらに強い口調で言い返した。
「そんな眼で見てない」
「見てますって。篠宮さん、自分で見えないから分かんないんでしょ? 俺がキスすると、眼うるませてくちびる半開きにして、めちゃめちゃ色っぽい表情になるんですよ。もう『今すぐ抱いてくれ』みたいな顔。俺、あの顔見ただけでバッキバキになっちゃうんですから」
「なっ……!」
反論しかけた篠宮の口を、結城は自分のくちびるを使って無理やり抑えこんだ。
「今日は珍しく、なかなかその気になってくれないんですね。それに、ほら。こっちだって」
篠宮の脚の付け根を、結城は人差し指でちょんちょんとつついた。結城に深く口接けられると、それだけで大きく勃ち上がってしまう部分が、今はおとなしく縮こまっている。
「口ではあれこれ言うけど、こっちのほうが正直ですよね、篠宮さん」
いつもの調子でそう言ってから、結城は急に考え深げに声を低めた。
「今日……いつぐらいかな。お花見の辺りから、いつもとちょっと様子が違うなって思ってたんです。普段の篠宮さんだったら、会社の中で、自分からキスなんて絶対にしないもの」
花見の辺りから。そう言われて、篠宮はひとつだけ思い当たることがあった。
たしかにあの時、膝の上に落ちる花びらを見ながら考えた事がある。結城と出逢う前の、遠い過去の記憶についてだ。
上半身を起こし、篠宮は結城の澄んだ眼を見下ろした。彼は、篠宮が自分で気づかない変化さえ敏感に感じ取る。嘘や誤魔化しの苦手な自分が、勘の鋭い結城に対して隠し事などできるはずがない。
「どうしてなんだろうな。私は……」
翳った瞳を見せないように睫毛を伏せ、篠宮は話し始めた。感情を読み取られまいと、低く抑えた声が微かに震える。
「たぶん、私は……桜の花が、あまり好きではないんだ」
「ええっ。そうだったんですか? 桜……あんなに綺麗で、篠宮さんによく似合ってるのに」
篠宮の発言に驚いたのか、結城がいきなり身体を起こす。その眼をじっと見つめ返し、篠宮は力なく微笑んだ。
「父が亡くなった日。桜の花が咲いていたんだ。まだ三月の始めだったが、早咲きの桜が咲いていて……だから、桜にはいい思い出がない。あの散っていく花びらを見ると、実の父の死に涙も流さなかった、薄情な自分を思い出すんだ」
「薄情って……薄情なのはお父さんのほうでしょ? 子供だった篠宮さんをずっと一人にして、家に帰ってもこなかったんだから」
ベッドに両手をつき、結城が篠宮のほうに向き直る。その慰めの言葉を聞きながら、篠宮はくちびるを噛んだ。舞い散る花びらを見て妙に心がざわめいたのは、父の死を他人事のようにしか思えなかった、あの時の罪悪感のせいだ。
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